オスリャービャ (フリゲート)
オスリャービャ Ослябя | ||
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オスリャービャ | ||
艦歴 | ||
起工 | 1857年3月3日 オフチンスコエ海軍工廠 | |
進水 | 1860年8月8日 | |
就役 | 1861年 | |
所属 | ロシア帝国海軍バルト艦隊 | |
退役 | 1874年10月19日 | |
要目 | ||
艦種 | フリゲート | |
艦級 | オスリャービャ級 | |
排水量 | 2976 t[1] | |
全長 | 70.1 m[2] | |
全幅 | 14.15 m[3] | |
喫水[4] | 艦首 | 5.6 m |
艦尾 | 6.2 m | |
機関 | 水平機関 | 1 基 |
ボイラー | 4 基 | |
出力 | 890 nhp[5] | |
スクリュー | 1 基 | |
速力 | 9.7 kn[6] | |
航続距離 | 1100 浬 | |
乗員 | 士官 | 37 名 |
水兵 | 445 名 | |
武装 | 15口径196 mm砲 | 1 門 |
13口径196 mm砲No.2 | 26 門 | |
173 mm砲 | 22 門 | |
装甲 | なし |
オスリャービャ(ロシア語:Ослябяアスリャービャ)は、ロシア帝国の建造したスクリューフリゲート(Винтовой фрегат)である。艦名はクリコヴォの戦いにおけるロシアの英雄「ロジオン・オスリャービャ」に因んだもので、同時期に建造されたペレスヴェートと対になるものである。[7]
概要
[編集]クリミア戦争の経験から、1850年代後半、ロシア帝国海軍は蒸気化・スクリュー化した軍艦の整備を急ぐようになった。艦隊の中堅となる新しいスクリューフリゲートに関しては、1858年にスクリューフリゲート・ゲネラール=アドミラールがアメリカ合衆国で進水し、一方、フランスではスクリューフリゲート・スヴェトラーナが進水した。
これに続いて発注されたのが、45門艦オスリャービャと51門艦ペレスヴェート、57門艦オレークであった。この3 隻はロシア国内で建造され、最初に起工したのがオスリャービャであった。
オスリャービャは1857年3月3日[8]、サンクトペテルブルクのオフチンスコエ海軍工廠で起工した。1860年8月8日に進水し、1861年に竣工してバルト艦隊へ編入された。
搭載する蒸気機関は460 公称馬力(nhp)[9]で、サンクトペテルブルクのカルル・イ・マクフェルソン工場で1860年に製作されたものであった。1947年生まれのロシアの軍事歴史家アレクサンドル・シロコラートの研究によれば、1862年から1868年の間、オスリャービャの上層甲板には60 ポンド砲No.1が1 門、No.2が6 門、閉鎖砲座にはNo.2が28 門搭載されていたとされる。
1863年7月から1864年7月にかけては、ステパン・レソーフスキイ海軍大将指揮下の「示威遠征艦隊」に参加して南北戦争中のニューヨークに赴き、大陸へのイギリスとフランスによる海上輸送の妨害任務に就いた。この艦隊はいずれも蒸気船で編成され、スクリューフリゲート・アレクサンドル・ネフスキーを旗艦に、オスリャービャ、ペレスヴェート、コルベットのヴァリャーク、ヴィーチャシ、クリッパーのアルマースが参加していた。
1874年10月19日には海軍を退役し、武装解除の上、売却・解体された。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ S・S・ベーレジュヌイの研究によれば3837 t。
- ^ S・S・ベーレジュヌイの研究によれば76.5 m。
- ^ S・S・ベーレジュヌイの研究によれば15.24 m。
- ^ S・S・ベーレジュヌイの研究によれば6.48 m。
- ^ S・S・ベーレジュヌイの研究によれば1741 馬力。
- ^ S・S・ベーレジュヌイの研究によれば10 kn。
- ^ 15世紀の物語『ママイの大合戦についての伝説(Сказание о Мамаевом побоище)』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い。
- ^ 公式には1857年12月22日とされている。
- ^ 指示馬力(ihp)では890 馬力。