オットー・ジンガー
オットー・ジンガー(1世)(Otto Singer I、1833年7月26日 - 1894年1月3日)はドイツのピアニスト、指揮者、作曲家。のちにアメリカでも活動した。
同じく音楽家である息子のオットー・ジンガー2世(Otto Singer II(英: Jr. / 独: Sohn)、1863年9月14日 - 1931年1月8日)についてもこの項で述べる。
生涯
[編集]ジンガーは、ザクセン王国ヴィルテンのゾラで生まれた。ドレスデンで教育を受け、1851年から1855年にかけてライプツィヒ音楽院でイグナーツ・モシェレス、モーリッツ・ハウプトマンに師事する。その後1865年までをライプツィヒで過ごし、フランツ・リストのいたヴァイマルへの短い滞在を経て、ジンガーは1867年、ニューヨークに渡った[1]。
1873年にはシンシナティに移り、セオドア・トーマスの下で音楽助監督となる。同じ年に一回目のシンシナティ・メイ・フェスティバルが開かれている。ジンガーはアメリカ独立百周年を記念したカンタータ「ピルグリム・ファーザーズの上陸」(The Landing of the Pilgrim Fathers)を1876年のフェスティヴァルのために、また1878年のシンシナティ音楽堂のこけら落としのために「祝典頌歌」(Festival Ode)を作曲した。その他にも様々な合唱協会 (聖歌隊) (en:Choral Society)で指揮を行い、1892年までシンシナティ音楽大学で教鞭を執ったのち、ニューヨークに戻りそこで没した。ジンガーはリストとリヒャルト・ワーグナーの熱心かつ積極的な信徒であり、それは彼の作品と、ピアノ演奏の両方に表れた。カンタータ以外の作品には交響曲をはじめ、複数のピアノソナタやピアノ協奏曲、室内楽曲やオルガン曲などがある[2]。
彼の息子であるオットー・ジンガー2世(ドイツ語版)[3]はアメリカで教育を受けたあとドイツで作曲家、指揮者、編曲家として活動し[4]、ヴォーカルスコアを含む大量のピアノ用編曲を残した。その中にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの全ての交響曲や、少なくとも57曲を超えるリストの歌曲、ヨハネス・ブラームスの全交響曲、リヒャルト・シュトラウスの全交響詩、ワーグナーの歌劇・楽劇のヴォーカルスコア(12曲。一部ピアノのみの編曲が含まれる)[5][6]、加えてアントン・ブルックナー、エクトル・ベルリオーズ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、グスタフ・マーラー、オイゲン・ダルベール、フレデリック・ディーリアス、ピョートル・チャイコフスキーなどの作品が含まれている。
注釈
[編集]- ^ Pratt, Waldo Selden, ed. (1920), “Singer, Otto”, Grove's Dictionary of Music and Musicians, 6 (American Supplement), New York: Macmillan Company, p. 362.
- ^ Universal Cyclopædia & Atlas, 1902, New York, D. Appleton & Co.
- ^ 楽譜のクレジット表記等では多くの場合"Otto Singer"とのみ名乗った。
- ^ Brainard's Biographies of American Musicians (edited by Elam D. Bomberger), p. 255
- ^ http://vc.lib.harvard.edu/vc/deliver/~scores/009793895
- ^ back cover of Otto Singer Jr.'s piano reduction of Das Liebesverbot, Breitkopf & Härtel, Leipzig, 1922