オットー・ハインリヒ (プファルツ選帝侯)
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オットー・ハインリヒ Otto Heinrich | |
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プファルツ選帝侯 | |
オットー・ハインリヒの肖像画。バルテル・ベーハム(Barthel Beham)による1535年の作品。 | |
在位 | 1556年 - 1559年 |
別号 | プファルツ=ノイブルク公 |
在位 | 1505年 - 1559年 |
出生 |
1502年4月10日 |
死去 |
1559年2月12日(56歳没) |
配偶者 | ズザンナ・フォン・バイエルン |
家名 | プファルツ家 |
父親 | ループレヒト・フォン・デア・プファルツ |
母親 | エリーザベト・フォン・バイエルン |
宗教 | キリスト教カトリック → ルター派 |
オットー・ハインリヒ(Otto Heinrich)またはオットハインリヒ(Ottheinrich, 1502年4月10日 - 1559年2月12日)は、プファルツ=ノイブルク公(在位:1505年 - 1559年)、後にプファルツ選帝侯(在位:1556年 - 1559年)。プファルツ選帝侯フィリップの三男ループレヒトと、バイエルン=ランツフート公ゲオルクの娘エリーザベトの子。
生涯
[編集]ゲオルクに男子継承者がなかったことから、共にヴィッテルスバッハ家の同族であるバイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世とプファルツ家の間で所領の継承を巡って紛糾し、ランツフート継承戦争(1503年 - 1505年)となった。結果、オットー・ハインリヒと弟フィリップは新設されたプファルツ=ノイブルク公の称号とともに、現バイエルン州のオーバーフランケンからオーバープファルツにかけて散在する所領を与えられ、父方の祖父フィリップと叔父フリードリヒ2世が摂政となった。フリードリヒ2世が1556年に死去すると、オットー・ハインリヒはプファルツ選帝侯を継承した。
オットー・ハインリヒは、かつてフリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝カール5世に屈服して断念した宗教改革を再びプファルツにもたらした。また、ノイブルク・アン・デア・ドナウに宮殿を建造した。
バイエルン公アルブレヒト4世の娘ズザンナと結婚したが、嗣子がなかったため、プファルツ選帝侯はプファルツ系支流のプファルツ=ジンメルン公フリードリヒ3世が、プファルツ=ノイブルク公は別の支流のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガングが継承した。
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