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オディロ・グロボクニク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オディロ・グロボクニク
Odilo Globocnik
1938年、親衛隊大佐の頃のグロボクニク
生年月日 1904年4月21日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国トリエステ
没年月日 (1945-05-31) 1945年5月31日(41歳没)?
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国パテルニオン英語版
出身校 クラーゲンフルトの文官の高校
前職 建築士
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
称号 親衛隊中将、警察中将、ドイツ十字章金章、一級鉄十字章パルチザン掃討章銀章 
配偶者 マルガレーテ(旧姓ミッチェナー)
サイン

在任期間 1938年5月22日 - 1939年1月30日

在任期間 1939年11月9日 - 1943年8月16日

ナチス・ドイツの旗 アドリア海岸作戦地域親衛隊及び警察高級指導者
在任期間 1943年9月13日 - 1945年5月8日

ナチス・ドイツの旗 国会議員
選挙区 ウィーン選挙区
在任期間 1938年4月10日 - 1945年5月8日
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オディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク(Odilo Lothar Ludovicus Globocnik[1]1904年4月21日1945年5月31日?)は、オーストリア及びドイツ政治家官僚。最終階級は親衛隊中将及び警察中将[1]。「グロボチュニク」[2]、「グロボツニク」[3]などの表記も散見する。愛称はグローブス[1]

オーストリア・ナチ党で頭角を現し、アンシュルス後にはナチ党ウィーン大管区指導者を務めた。第二次世界大戦中には親衛隊(SS)将官としてポーランドルブリン地区親衛隊及び警察指導者を務め、150万人以上のユダヤ人を殺害したラインハルト作戦(ユダヤ人のゲットーを解体して絶滅収容所へ移送する計画)の執行にあたった。

経歴

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アンシュルス前

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当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったトリエステ(ドイツ語発音はトリエスト)にオーストリア=ハンガリー帝国陸軍騎兵大尉フランツ・グロボクニク(Franz Globočnik)とその妻アンナ(Anna)の息子として生まれる[4]

オディロも陸軍幼年学校に入ったが、第一次世界大戦の影響でオーストリアのケルンテンクラーゲンフルトへ移り、文官の高校へ入学した。

卒業後、ケルンテンで建築士の仕事をした。1922年にオーストリア・ナチ党に入党[1]。1931年3月1日にはドイツ・ナチ党にも入党(党員番号412,938、後に442,939)している。また1934年9月1日に親衛隊(SS)の隊員となる(隊員番号292,776)[1]。オーストリアでのグロボクニクは、オーストリア・ナチ党とドイツ・ナチ党との連絡役を務めていた。1934年末頃にはドイツ・ナチス党のSD長官ラインハルト・ハイドリヒのオーストリアでの密接な連絡者になっていた。1936年7月16日にはアドルフ・ヒトラーベルヒテスガーデンの山荘に招かれており、オーストリア・ナチ党が非合法活動から手を引くことを求められた[5]

グロボクニクは、フリードリヒ・ライナードイツ語版エルンスト・カルテンブルンナーに近い立場をとっており、当初はオーストリア・ナチ党の合法化に固執しなかった。1933年から1935年にかけてグロボクニクは4度にわたりオーストリア警察から逮捕されている。しかしその後、ライナー・カルテンブルンナー・グロボクニクらは、合法路線のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトらと連携し、ザイス=インクヴァルトのナチス党政権をつくることに尽力した[6]

ナチス政権下

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アンシュルス(オーストリア併合)直後の1938年3月からウィーン地区のドイツ国会議員となる。3月12日には親衛隊大佐に昇進し、親衛隊上級地区「ドナウ」司令官エルンスト・カルテンブルンナーの幕僚となる[7]

1938年4月10日からウィーン選挙区選出の国会議員となる[7][8]

同年5月22日にナチス党のウィーン大管区指導者に任じられたが、外国為替違法投機を行ったことにより、1939年1月30日をもってウィーン大管区指導者を免ぜられ、後任にはヨーゼフ・ビュルケルが就任した[9][10]

しかしSS長官ハインリヒ・ヒムラーからは許された。この後、グロボクニクは名誉回復の場を求めるようになり、親衛隊特務部隊に入隊を希望し、1939年3月から第2連隊「ゲルマニア」に入隊した。一般親衛隊での階級の継承は認められず、親衛隊少尉としての勤務であった[7]

第二次世界大戦中

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ドイツ軍のポーランド侵攻の際にも「ゲルマニア」に従軍した。占領後の1939年11月9日、ヒムラーは、グロボクニクに再度チャンスを与えた。グロボクニクをポーランドルブリン地区の親衛隊及び警察指導者を命じたのであった。グロボクニクは名誉回復のためにもここで与えられることとなる任務ホロコーストを忠実に実行する。

ベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所の設置に携わった[9]ポーランド総督府領内のユダヤ人を三大絶滅収容所へ送り込んでガス殺する「ラインハルト作戦」の執行はグロボクニクに委ねられていた。グロボクニクはヒムラーへの報告書の中で「ラインハルト作戦」の任務について「Aユダヤ人の移住(殺害)、Bユダヤ人の労働力の活用、C物財の活用、D隠匿された有価物と不動産収用」の4つをあげている[11]

グロボクニクはポーランド総督府領全体の親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー親衛隊大将の指揮下にあったが、「ラインハルト作戦」の執行においては親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに直属するとされ、クリューガーの指揮は受けなかった[12]。さらに「ラインハルト作戦」を実質的に指揮したのはグロボクニクの副官であるヘルマン・ヘフレドイツ語版親衛隊大尉であった。彼が各地域の親衛隊及び警察指導者と調整しながらゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送を指揮した。またベウジェツ・ソビボル・トレブリンカの三大絶滅収容所の管理はクリスティアン・ヴィルトに委ねられていた[11][13]。150万人以上のユダヤ人がラインハルト作戦によって殺害された[10]

1942年11月9日に親衛隊中将及び警察中将に昇進[7]

ベニート・ムッソリーニが失脚し、ドイツ軍がイタリアへ侵攻した後の1943年9月にグロボクニクは、生まれ故郷のトリエステ(この頃はイタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州となっていた)に配属され、イタリアの親衛隊及び警察最高級指導者カール・ヴォルフの下でアドリア海岸作戦地域の親衛隊及び警察高級指導者となった。ここでの彼の任務はパルチザンの掃討が主であったが、同時にイタリア国内でユダヤ人狩りも行っている。しかし連合軍が接近してくるとグロボクニクは、オーストリアのケルンテン州へ逃亡。少数の親しい者と一緒にヴァイセンゼー(ケルンテン)ドイツ語版近くの山小屋に身を隠すようになった。

ドイツ敗戦後の1945年5月31日、グロボクニクはイギリス軍により見つけ出されて逮捕されたが、その日のうちにパテルニオンドイツ語版においてシアン化物のカプセルを服用して自殺したとされる。なお彼が死んだ証拠とされる写真には偽造説があり、グロボクニクは、金や宝石と引き換えにイギリス兵を買収して逃れたのではないかともいわれる。また他のナチ戦犯とともにシリアで生涯を終えたなどともいわれるが、真相は不明。本稿では死亡日は一般的な1945年5月31日とする。

スラブ人疑惑

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グロボクニクはスラブ系(スロベニア系)の姓で、父はスロベニア人、母はセルビア人とクロアチア人のハーフである。なお、ナチスの人種理論ではスロベニア人を含むスラブ人は「劣等人種」(Untermenschen)の扱いであった。

このようにドイツ系とは言いがたい血筋であり、国際メディアやナチ党員までもが「スラブ人」のグロボクニクを馬鹿にしていたがが、本人は「スラブ化されたドイツ人」「ゲルマン人」と頑なに主張し、同志のヒムラーの庇護などによりその主張は認められていた[14]

人物

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  • 身長は176センチ[4]
  • 信仰はもともとはローマ・カトリックだったが、親衛隊入隊後には親衛隊の規則に従ってキリスト教会を離れた[4]

キャリア

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親衛隊少将の頃のグロボクニク。

階級

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受章

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脚注

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  1. ^ a b c d e f Miller 2006, p. 401.
  2. ^ ラカー 2003, p. 186.
  3. ^ ヴィストリヒ 2001, p. 69.
  4. ^ a b c d Miller 2006, p. 411.
  5. ^ Miller 2006, p. 402-403.
  6. ^ 大野英二 2001, p. 241-242.
  7. ^ a b c d Yerger 1997, p. 95.
  8. ^ Miller 2006, p. 404.
  9. ^ a b ヴィストリヒ 2002, p. 69.
  10. ^ a b Miller 2006, p. 405.
  11. ^ a b 栗原優 1997, p. 181-192.
  12. ^ 栗原優 1997, p. 181.
  13. ^ 芝健介 2008, p. 188.
  14. ^ Odilo Globocnik, Hitler's Man in the East, Joseph Poprzeczny, McFarland (2015) 47頁。

参考文献

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  • ヴィストリヒ, ロベルト・S. 著、滝川義人 訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』東洋書林、2001年。ISBN 978-4887215733 
  • 大野英二『ナチ親衛隊知識人の肖像』未来社、2001年。ISBN 978-4624111823 
  • 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態ミネルヴァ書房、1997年。ISBN 978-4623027019 
  • 芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌中公新書、2008年。ISBN 978-4121019431 
  • ラカー, ウォルター 著、井上茂子,芝健介,永岑三千輝,木畑和子,長田浩彰 訳『ホロコースト大事典』柏書房、2003年。ISBN 978-4760124138 
  • Miller, Michael D. (2007年). Leaders of the SS & German Police, Volume I. Bender Publishing. ISBN 9329700373 
  • Yerger, Mark C. (2007年). Allgemeine-SS. Schiffer Pub Ltd. ISBN 978-0764301452 

関連項目

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公職
先代
創設
ナチス・ドイツの旗 ルブリン親衛隊及び警察指導者
1939年-1943年
次代
ヤーコプ・シュポレンベルク
先代
新設
ナチス・ドイツの旗 アドリア海親衛隊及び警察高級指導者
1943年-1945年
次代
廃止
党職
先代
フランツ・リヒタードイツ語版
ナチス・ドイツの旗 ナチ党ウィーン大管区指導者
1938年-1939年
次代
ヨーゼフ・ビュルケル