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オピス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オピス
オピスの位置(イラク内)
オピス
イラクにおける位置
所在地 バグダード県, イラク
地域 メソポタミア
座標 北緯33度10分53.5秒 東経44度41分56.9秒 / 北緯33.181528度 東経44.699139度 / 33.181528; 44.699139座標: 北緯33度10分53.5秒 東経44度41分56.9秒 / 北緯33.181528度 東経44.699139度 / 33.181528; 44.699139
種類 古代都市

オピス(Opis。アッカド語ではUpî または Upija、古代ギリシア語ではὮπις)はティグリス川付近にある古代バビロニアの都市。現代のバグダッドからそれほど遠くではない。アッカドとギリシアの文書によれば、ティグリス川の東岸、ディヤラ川付近にあったとされている。長い間、街の正確な位置は正確にはわからないと考えられてきたが、古代メソポタミアに対する最近の地理学の調査により、オピスはかなり高い確率でTall al-Mujailāt(又はTulūl al-Mujaili`)と呼ばれる小さなであろうとされている。位置は、現代のバグダッドの中心から南東へ直線で20マイル(約32km)、または古代のバビロンから北東へ直線で47マイル(約75.2km)の場所にある[1]

歴史

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オピスが初めて言及されるのは、紀元前2千年紀の初めのころである。紀元前14世紀には、バビロニアの地方行政区の首都となった。 バビロニア人たちはユーフラテス川とティグリス川の間に「王の運河」を掘ったが、それはオピスの近くで終点を迎える。新バビロニアの王ネブカドネザル2世(紀元前605年~紀元前562年)はメディアの侵攻を想定し、その防御のために、2つの川の間に長い城壁を建設した。防衛戦はティグリス川を越えて東に延び、オピスの近くまで続いた[2]

紀元前539年、新バビロニア王ナボニドゥス(紀元前556~539年)の部隊がキュロス大王(紀元前559~530年)指揮下のペルシア軍に対抗するため、オピスを防衛した。だが、バビロニア軍は敗れ、住民はその政府に対して反乱を起こした。それ以上の戦闘は経ずして、キュロスはバビロンを占領した[3]。オピスはペルシア帝国の王の道の近くに位置した。王の道は、かつてのエラムの首都スーサからアッシリアの中心地アルビールを通り、はるか西、リュディアの首都サルディスへと至る。

マケドニアによる征服

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紀元前331年9月、マケドニアアレクサンドロス大王(紀元前336~323年)はペルシア帝国のダレイオス3世(紀元前336~330年)をガウガメラの戦いにおいて破り、おそらくバビロンの占領とほぼ同時にオピスも管轄下においた。数年後、アレクサンドロスは ヒュファシス川(現在のビーズ川)における部下の反抗により、インドにおける長期遠征から戻らなければならなくなった。そして、彼のヨーロッパ人の部隊がオピスで反乱を起こした(紀元前324年の秋)。アレクサンドロスはマケドニア人とペルシア人の間に持続する調和を形成しようと試み、彼はオピスにおいて、9000人のペルシア軍・ギリシア軍部隊の前で連帯を誓った。同じ流れで、彼はスタテイラ(ダレイオス3世の娘)と結婚した。また、オピスに来る直前にスーサにおいて、彼の大勢の士官たちとペルシア人女性や他の東方の貴族女性たちとの、合同結婚式を行った。

ギリシアによる統治

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アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)の1人、セレウコス1世ニカトール(紀元前306~281年)がセレウコス朝を興し、ティグリス川の西岸、オピスの12マイル(約19.2km)南西に 彼のメソポタミア地方の首都セレウキアを建設した。ヘレニズムの都市セレウキアは、すぐにメソポタミア地方の主要都市、例えばバビロンなどを凌駕するようになった。 紀元前2世紀、パルティア王国がセレウキアとオピスを含む、セレウコス朝の東部地方を征服した。パルティア王国は、セレウキアとオピスと中間に首都(後のサーサーン朝ペルシア帝国の首都にもなった)クテシフォンを建設した。クテシフォンの出現により、今度はセレウキアとオピスの影が薄くなっていくこととなったのである。

脚注

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  1. ^ 後述の参考文献『東地中海~』(ホーグルマン、ブッシュマン、1986年) 『ヘルシンキ地図帳』(パーポラ、ポーター、2001年)の地図番号32、用語集p.18 『バーリントン地図帳~』(リチャード・ジョン・アレクサンダー・タルバート、2000年) 地図91のF4
  2. ^ 運河とメディアの城壁の位置については、後述の参考文献『バーリントン地図帳~』(リチャード・ジョン・アレクサンダー・タルバート、2000年) 地図91のF4を参照。
  3. ^ 参考文献『ペルシア帝国の歴史』(アルバート・テン・オルムステッド)p.50

参考文献

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  • Peter Högelmann and Kai Buschmann, "Östlicher Mittelmeerraum. Das achämenische Westreich von Kyros bis Xerxes (547–479/8 v. Chr.)," in Tübinger Atlas des Vorderen Orients, B IV 23, 1986.
    (『東地中海 キュロスからクセルクセスまでのアケメネス朝ペルシア帝国西部(紀元前547~479/8年)の地図』(著:ピーター・ホーグルマンおよびカイ・ブッシュマン、テュービンゲン中東地図センター(ドイツ)、1986年)
  • Albert Ten Olmstead, "History of the Persian Empire", Chicago 1948.
    (『ペルシア帝国の歴史』(アルバート・テン・オルムステッド、シカゴ大学出版、1948年))
  • Simo Parpola and Michael Porter, The Helsinki Atlas of the Near East in the Neo-Assyrian Period, Helsinki 2001.
    (『ヘルシンキ地図帳 新アッシリア帝国時代の近東地図』(著:シモ・パーポラ及びミカエル・ポーター、カスコ湾アッシリア学会(米国)、2001年))
  • Richard John Alexander Talbert, Barrington Atlas of the Greek and Roman World, Princeton 2000.
    (『バーリントン地図帳 ギリシアとローマの世界』(著:リチャード・ジョン・アレクサンダー・タルバート、プリンストン大学出版(米国)、2000年))