オーラ・マイズ
オーラ・L・マイズ Ola Lee Mize | |
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生誕 |
1931年8月28日 アメリカ合衆国 アラバマ州マーシャル郡 |
死没 |
2014年3月5日 (82歳没) アメリカ合衆国 アラバマ州ガズデン |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1950年 - 1981年 |
最終階級 | 大佐(Colonel) |
オーラ・リー・マイズ(Ola Lee Mize, 1931年8月28日 - 2014年3月5日)は、アメリカ合衆国の軍人。アメリカ陸軍に所属し、朝鮮戦争での戦功から名誉勲章を受章している。最終階級は大佐。
経歴
[編集]1931年、アラバマ州マーシャル郡にて小作人の息子として生を受ける。家族の仕事を手伝うため、学校は9年生で退学している。賃金は決して良いとは言えず、退学から数年後には陸軍へ志願したが、当時彼の体重は120ポンド (54 kg)しかなく陸軍の入隊基準を満たしていなかった為に拒否されている[1]。しかし、その後も彼は志願を繰り返し、最終的にアラバマ州ガスデンにて陸軍への入隊を果たした[1][2]。
第82空挺師団に配属されたマイズは、任期満了後に除隊し学校教育を受け直そうと計画していた。しかし朝鮮戦争が始まると考えを変え、前線での勤務に志願した[1]。その後、彼は軍曹(Sergeant)として最前線の第3歩兵師団第15歩兵連隊K中隊に配属された。1953年6月10日、K中隊は中国人民志願軍による大攻勢に晒されていたハリー前哨地点に配置された。マイズは防御態勢を整えつつ負傷者を救助し、翌日昼の援軍到着まで戦い続けた[1]。その後、彼は曹長(Master Sergent)に昇進し、1954年9月24日にはハリー前哨地点での戦功により名誉勲章が授与された[2]。
その後、マイズはグリンベレーの将校となり、ベトナム戦争中には3度ベトナムに派遣されている。1965年、彼は特殊部隊訓練グループ(Special Forces Training Group)に配属され、スキューバダイビングやHALO降下、スカイフックなどの上級訓練に関する委員会の責任者を務めた。また、彼はフロリダ州キーウェストに設置されている戦闘ダイバー認定コース(Combat Divers Qualification Course)の創設に関する責任者の1人であった。1966年から1967年まで、ベトナムにて第5特殊部隊グループのAからCまでの各分遣隊で指揮官を務めた。1969年には第5特殊部隊グループのうち、カンボジア兵から成る第3機動打撃部隊コマンド(3rd Mobile Strike Force Command)の指揮官となる。1969年、彼は第3機動打撃部隊B-36の指揮官としての戦功から銀星章を受章している。1981年には大佐の階級を最後に退役する[1]。現在、彼が受章した名誉勲章はアラバマ州ガンターズビルのガンターズビル博物館(Guntersville Museum)に展示されている[3]。
2014年3月12日、アラバマ州ガズデンにてガンのために82歳で死去した[4][5]。
受章
[編集]名誉勲章の勲記
[編集]マイズに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。
K中隊所属マイズ曹長は著しい勇敢、卓越した勇気、課せられた義務を凌駕する行動でその名を知らしめた。敵軍の大攻勢が始まった時、K中隊は戦略的要衝であるハリー前哨地点の防衛に従事していた。友軍聴音哨の兵士が激しい弾幕の中を移動して負傷したと聞いた彼は、衛生兵を伴い負傷者の救出にあたった。持ち場に戻った彼は効果的な防衛体制を確立、前哨区域内の塹壕に浸透しつつあった断固たる決意の元にある敵戦闘部隊への反撃を行い、大きな損害を与えた。この大胆不敵な反攻の最中、彼は砲撃や手榴弾の爆風で3度倒れたが、その度に臆することなく立ち上がり、頑強に戦い続け、ついに敵の攻勢を退けることに成功した。敵の大攻勢が収まった後、彼は数人の部下を連れて掩蔽壕から掩蔽壕に移動し、開口部から銃撃を行いつつ手榴弾を投擲して敵軍の排除に努めた。戦友の背後に敵兵が現れ今まさに銃を撃たんとしているのを認めたマイズ曹長はそれを射殺して戦友を救った。小隊を再集結した後、彼は全員と顔を合わせ、銃弾を再分配し、励ましの言葉を叫び、友軍機関銃陣地の位置を確認した。彼はすぐに機関銃陣地までの道を切り開くために突撃し、敵兵10人を殺害して残余にも撤退を強いた。戦闘を続けながら指揮所に戻ると、そこには負傷兵が残されており、彼らを守るべく防衛体制を立て直した。その後、無線機が確保され、彼は敵の攻撃ルートに対する砲撃を指揮した。夜が明ける頃、彼は反撃のために部隊の再編成を支援し、やがて前哨地点から完全に敵を排除することに成功した。マイズ曹長の勇敢な行いと卓越した勇気は彼自身に永遠の栄光をもたらし、また我が軍の高貴なる伝統を守ることに繋がった[2]。
脚注
[編集]- この記事にはパブリックドメインである、アメリカ合衆国連邦政府のウェブサイトもしくは文書本文を含む。
- ^ a b c d e “Medal of Honor: Ola L. Mize”. The Daily Nightly (August 30, 2007). 2009年7月22日閲覧。
- ^ a b c “Medal of Honor recipients - Korean War”. United States Army Center of Military History (June 8, 2009). 2009年7月22日閲覧。
- ^ Brewer, David (July 17, 2009). “Guntersville Museum holding reception Sunday to honor veterans”. The Huntsville Times 2009年7月22日閲覧。
- ^ http://www.foxcarolina.com/story/24958039/medal-of-honor-recipient-ola-l-mize-passes-away-at-82
- ^ http://www.washingtonpost.com/national/ola-l-mize-who-received-the-medal-of-honor-for-valor-during-the-korean-war-dies-at-82/2014/03/13/a4dd4946-aac2-11e3-adbc-888c8010c799_story.html