オールド・ボリシェヴィキ
オールド・ボリシェヴィキ(英語: Old Bolshevik、ロシア語: ста́рый большеви́к)は、ボリシェヴィキのうちで帝政ロシア時代、すなわち1917年の十月革命以前から活動していたものを指す呼称である。「党の古い護衛」 «старая партийная гвардия» とも[1]。ウラジーミル・レーニンによれば、党のこの「最も薄い層」こそが「巨大で独占的な威信」を有していたという[1]。
1972年のソ連の資料では、1922年の時点で44,148人いたとされ[2]、史家のヴァディム・ロゴヴィンはボリシェヴィキ第13回党大会の記録から、1924年時点の総党員数60万人中0.6パーセントが1905年以前の入党者であり、1906年から1916年までの入党者は2パーセント、1917年の入党者は9パーセントと推計している[3]。
組織
[編集]1922年にインスパルトに付属して全連邦オールド・ボリシェヴィキ協会 «Всесоюзное общество старых большевиков» が創立された[4]。これは歴史的、革命的資料を収集し、革命の伝統を若い世代の活動家へ伝えるための機関であったが、それに加入するための基本要件は1904年の派閥形成から連続して18年間党員であったということだった[4]。しかしこの要件は後に緩和されたため、創立当初は64人だった会員数は1934年1月には2千人以上にのぼった[4]。そのため、1927年に協会は1917年以降の入党者の排除を訴えている[5]。この協会は1935年に解体された[4]。
主なメンバー
[編集]- アヴェリ・エヌキーゼ
- ミハイル・オリミンスキー(1922年から1931年まで会長)
- モイセイ・グベリマン(ru)
- アレクサンドル・ゴルビ(ru)
- フョードル・サモイロフ(ru)
- ボリス・シュミャツキー
- アレクサンドル・ストパニ(ru)
- ヴィクトル・ノギン
- ゲンリフ・フィシェル(ru)
- チホン・ボンダレフ
- レフ・ミハイロフ(ru)
- エメリヤン・ヤロスラフスキー(1931年から1935年まで会長)
- マルティン・リャドフ
- パンテレイモン・レペシンスキー
- フリドリフ・レングニク
その他の定義
[編集]ソビエト連邦元外相、共産党の重鎮であるヴャチェスラフ・モロトフは1905年のロシア第一革命以前の入党者をオールド・ボリシェヴィキと見なしており、自身をそれに含める考えを取っていなかった。モロトフは後のインタビューにこう語っている。
……これらのオールド・ボリシェヴィキたちだが……ちなみに、私は最近まで自分がオールド・ボリシェヴィキだと考えたことはなかった。それはなぜか。オールド・ボリシェヴィキは1905年にいて、彼らは5年目までには形作られていたからだ。(聞き手)でもあなたは6年目に入党されています。16歳で党員になられたんですよ。
だから何だというんだ。なぜ私がオールド・ボリシェヴィキなのかね?
まあ、私の頃はもう革命時代と革命後だったので、自分をオールド・ボリシェヴィキと見なすこともできなくはない。だが、その隣には1905年からすでに部隊を率いていた髭面の男たちがいた……。言うまでもなく、功労者は我々の先代なのだ。私の地位は非常に高かったが、私は彼らの言うことに耳を傾けた。私は1903年から1904年は、古いレーニンの党にはいなかった。にもかかわらず二月革命前から中央委員会の3委員のうちの一人だった。だが、私は彼らに非常に、非常に近かったのだ。 — Чуев Ф. И. «Член политбюро ЦК ВКП(б) Молотов»[6]
脚注
[編集]- ^ a b V.Lenin, March 26, 1922
- ^ Дейч М. (2003年1月10日). “Александр Солженицын как зеркало русской ксенофобии”. Московский комсомолец
- ^ Роговин В. З. «Троцкизм»: взгляд через годы. — М.: Терра, 1992.
- ^ a b c d Общество старых большевиков - ソビエト大百科事典の項目
- ^ За единство партии,против раскольнической деятельности оппозиции - СТАРЫЕ ГАЗЕТЫ
- ^ Член политбюро ЦК ВКП(б) Молотов - Военная Литература