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カザレッキオの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カザレッキオの戦い

カザレッキオ・ディ・レーノ
戦争ミラノ公国の領土拡大
年月日1402年6月26日
場所カザレッキオ・ディ・レーノ
結果:ミラノ軍の勝利
交戦勢力
ミラノ ボローニャ
フィレンツェ
指導者・指揮官
アルベリコ・ダ・バルビアーノ ムツィオ・アッテンドロ
戦力
騎兵8000
多数の歩兵
騎兵5000
複数の歩兵部隊
損害
不明 不明

カザレッキオの戦いは、1402年6月26日イタリア北部の都市、ボローニャの近郊で行われた戦いである[1]

この戦いでは、ボローニャの支配者ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオの軍と、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの軍が対峙した。 前者はフィレンツェ共和国の支援を受けており、ベルナルド・デッラ・セラ率いる5000人の騎兵(Rose Brigade)が加わっていた[1]。また、パドヴァの領主も騎兵と物資を2人の息子と共にボローニャ陣営へ送っていた[2]

ヴィスコンティ陣営はリミニマラテスタ家マントヴァゴンザーガ家の援助を受け[1]、その8000騎の前衛はファチノ・カーネや[1]ルドヴィーコ・ガブリオット・カンテッリ (ルドヴィーコ・ダ・パルマ) といったコンドッティエーレによって指揮されていた。

ボローニャ・フィレンツェ連合軍はムツィオ・アッテンドロによって率いられ、ミラノ軍はアルベリコ・ダ・バルビアーノが指揮を執っていた[1]

戦闘

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バルビアーノはミラノ軍を野営させ、まずボローニャ・フィレンツェ軍と小競り合いを始めた。この小戦闘により優勢になったと判断したベンティヴォーリオは戦いに加わるようベルナルド軍に命令したものの、彼はそれを拒んだ。そこでベンティヴォーリオは自身の部隊を進め、強固に要塞化されたカザレッキオに陣を張った[3]

その数日後、ミラノ軍は整然とした隊列でボローニャ・フィレンツェ軍を奇襲して退却させ、その野営地を奪うことに成功した[3]。状況を把握するために高台に退いていたRose Brigadeは200人の槍騎兵と共に逃亡してしまった[3]

この戦いの結果ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオは捕えられ、2日後に殺された[4]。そしてジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティはボローニャを征服することに成功し、フィレンツェが次の目標として狙われることになった。しかし1402年8月10日に彼は病気にかかり、9月3日に急死してしまった[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e Morelli 2015, p. 199.
  2. ^ Morelli 2015, p. 199-200.
  3. ^ a b c Morelli 2015, p. 200.
  4. ^ de Sismondi 2008, p. 179.
  5. ^ Black 2009, p. 72.

出典

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  • Black, Jane (2009). Absolutism in Renaissance Milan: Plenitude of Power Under the Visconti and the Sforza 1329-1535. Oxford University Press 
  • Morelli, Giovanni di Paolo (2015). “Memoirs”. In Branca, Vittore. Merchant Writers: Florentine Memoirs from the Middle Ages and Renaissance. University of Toronto Press 
  • de Sismondi, J. C. L. (2008). A History of the Italian Republics. Wildside Press 

座標: 北緯44度29分00秒 東経11度17分00秒 / 北緯44.4833度 東経11.2833度 / 44.4833; 11.2833