カタリーナ・フォン・ハプスブルク (1256-1282)
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カタリーナ・フォン・ハプスブルク Katharina von Habsburg | |
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出生 |
1256年ごろ 神聖ローマ帝国 シュヴァーベン公領、ラインフェルデン |
死去 |
1282年4月4日 神聖ローマ帝国 バイエルン公領、ランツフート |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 バイエルン公領、ランツフート、ゼリゲンタール修道院 |
配偶者 | 下バイエルン公オットー3世 |
子女 |
ルドルフ ハインリヒ |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | ローマ王ルドルフ1世 |
母親 | ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク |
宗教 | キリスト教カトリック |
カタリーナ・フォン・ハプスブルク(ドイツ語:Katharina von Habsburg, 1256年ごろ - 1282年4月4日)は、ローマ王ルドルフ1世とゲルトルート・フォン・ホーエンベルクの娘。1279年ごろに下バイエルン公オットー3世と結婚した。オットー3世はカタリーナの死後にハンガリー王となっている(在位:1305年 - 1307年)。
生涯
[編集]バイエルンとオーストリアが和解していた短期間の間に、ハインリヒ13世とルドルフ1世との間で、ハインリヒ13世の長男オットー3世とルドルフ1世の娘カタリーナとの結婚が、4万マルクの持参金とともに決められた。この金額と引き換えに、ハインリヒはオブ・デア・エンス(現在のオーバーエスターライヒ)を担保として要求した。この合意により、ルドルフ1世はオタカル2世との争いにおいて、ウィーンへの通路を確保した。
結婚式は1279年ごろにウィーンで行われた。しかし、両家の和解していた期間は長くは続かなかった。ルドルフ1世がオーストリアで勝利した後、ハインリヒはオブ・デア・エンスの獲得をあきらめざるを得ず、また持参金も3千マルクに減額された。カタリーナは結婚から3年後にランツフートで死去し、ゼリゲンタール修道院に埋葬された。オットー3世との間には1380年に双子の男子ルドルフとハインリヒが生まれたが、どちらも生後間もなくして死去した。1383年の仲裁裁定により、ハインリヒ13世はルドルフ1世の後継者であるアルブレヒト1世に3千マルクを返還することとなった。
参考文献
[編集]- Brigitte Hamann: Die Habsburger, ein biographisches Lexikon. Verlag Carl Ueberreuter, Wien 1988, ISBN 3-8000-3247-3, p. 232.