カタリーナ・フォン・ハプスブルク (1320-1349)
表示
カタリーナ・フォン・ハプスブルク Katharina von Habsburg | |
---|---|
出生 |
1320年2月9日 |
死去 |
1349年9月28日(29歳没) |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 チロル伯領、ケーニヒスフェルデン修道院 |
配偶者 | クシー領主アンゲラン6世 |
マクデブルク城伯コンラート2世・フォン・ハルデック | |
子女 | アンゲラン7世 |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | オーストリア公レオポルト1世 |
母親 | カタリーナ・ディ・サヴォイア |
カタリーナ・フォン・ハプスブルク(ドイツ語:Katharina von Habsburg, 1320年2月9日 - 1349年9月28日)またはカトリーヌ・ドードリッシュ(フランス語:Catherine d'Autriche)は、オーストリア公レオポルト1世の娘。クシー領主アンゲラン6世およびマクデブルク城伯コンラート2世・フォン・ハルデックと結婚した[1] 。
生涯
[編集]カタリーナはオーストリア公レオポルト1世およびカタリーナ・ディ・サヴォイアの長女として生まれた[2]。妹アグネスはシフィドニツァ公ボルコ2世マウィと結婚した。父方の祖父はアルブレヒト1世、母方の祖父母はサヴォイア伯アメデーオ5世とその2番目の妃マリー・ド・ブラバンである[1]。
父レオポルト1世はカタリーナが6歳の時に死去し、カタリーナと4歳の妹アグネスは、おじのフリードリヒ3世とアルブレヒト2世の後見のもとにおかれた。
カタリーナは18歳の時、フランス貴族のクシー領主アンゲラン6世と結婚した。結婚契約書は1338年11月25日にヴァンセンヌにおいて署名された。この結婚により1男アンゲラン7世が生まれた。結婚から8年たった1346年、アンゲラン6世はクレシーの戦いにおいて戦死した。息子アンゲラン7世がクシーを継承し、後にイングランド王エドワード3世の娘イザベラと結婚した。
アンゲラン6世の死から2年後の1348年2月、カタリーナはマクデブルク城伯コンラート2世・フォン・ハルデックと再婚した。しかし翌1349年9月25日にコンラート2世はペストで死去し、カタリーナもその3日後に死去した。カタリーナはケーニヒスフェルデン修道院に埋葬された。
脚注
[編集]- ^ a b (ドイツ語) Genealogisches Handbuch zur Schweizer Geschichte: Bd. Hoher Adel. Schulthes. (1908). p. 18 10 May 2018閲覧。
- ^ (フランス語) Bulletin de la Société de l'histoire de France. Société de l'histoire de France. (1897). p. 225 10 May 2018閲覧。