カフェー・タイガー
カフェー・タイガー(Café Tiger)は、かつて存在した日本の飲食店、カフェーである。関東大震災後、銀座に開業し、カフェー・ライオンに対抗して勢力を伸ばした。
略歴・概要
[編集]開店
[編集]関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年)、カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した。「ライオン」と「タイガー」の競争ということでも話題を呼び、当時のヒット曲「当世銀座節」(西條八十作詞、中山晋平作曲、1928年)に"虎と獅子"と唄われた。
営業
[編集]浅草のオリエントと同系列(浅野総一郎家の経営)で、オリエントから大勢の女給が移ってきたという。女給は16、7歳から25、6歳まで、30人近くがいた[1]。
「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物で、酒、料理は二の次だった[2]。ライオンでは女給の監督が厳しく、少し品行が悪いとクビになったが、こうした女給をタイガーが引き取った。その結果、目立つ女性は皆タイガーに移ってしまった[3]。
もっとも、関西から「エログロ好み」のカフェーが多数進出してきたため、タイガーのサービスもおとなしく感じられるようになったという[4]。
後に、浅野家から本郷バーに経営が移った。警視庁がカフェー取締りを強化する中、1935年(昭和10年)に閉店した[5]。
文壇の客たち
[編集]永井荷風、菊池寛、中村武羅夫、三上於菟吉らの作家がタイガーをひいきにした。広津和郎の小説『女給』で話題になった菊池寛のカフェー通いはこの店が舞台であった[6]。
永井荷風は1926-27年にかけてタイガーの女給「お久」と馴染んだが、やがて500円の金を要求され、閉口させられた。後日、無頼漢の情夫がおり、度々ゆすりを働いていたことを聞き、日記に「黙阿弥劇の白浪物を見るが如し」と感想を記した[7]。その後もタイガー通いは続き、カフェーを舞台にした小説『つゆのあとさき』を書いた(1931年5月脱稿、同年10月号の「中央公論」に発表)。
注釈
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 日本における喫茶店の歴史
- カフェーパウリスタ (水野龍、南鍋町)
- カフェー・プランタン (松山省三、日吉町)
- カフェー・ライオン (尾張町)