カラダイ
カラダイ(モンゴル語: Qaradai、? - 1307年)は、モンゴル帝国に仕えたカルルク部出身の武将の一人。『元史』などの漢文史料における漢字表記は哈剌䚟(hālàdǎi)。
概要
[編集]カラダイが初めてモンゴル帝国の遠征に参加したのは襄陽・樊城の戦いで、蒙古四万戸府の水軍に属した。至元12年(1275年)に襄陽が陥落しバヤンを総司令とする南宋全面侵攻が始まると、管軍百戸に改められ、アジュの率いる軍団に所属し長江下流域一帯に侵攻した。アジュ軍は張世傑・孫虎臣率いる南宋の車団と焦山にて激突したが、この戦いでカラダイは敵の軍船2を歯獲する功績を挙げた。その後、アジュらは水軍の指揮をカラダイに委ね、江陰・許浦・金山・上海・崇明・金浦を平定したカラダイの水軍は新たに海船300隻余りを得て浦海に駐屯した[1]。
至元13年(1276年)春、張世傑の水軍が慶元に至り、カラダイの水軍はこれを追撃して4艘を鹵獲する功績を挙げた。同年7月には南宋の水軍1千艘余りが定海港に攻撃を仕掛け、カラダイはこれを迎撃して逆に敵の軍船3般を奪った。8月にも同じように襲撃があったがこれも撃退し、10-11月には逆に温州方面に侵攻し、福州に至って敵の海船20般と毛監丞を捕虜とする功績を挙げた[2]。
至元14年(1277年)には宣武将軍・沿海招討副使に任じられ、至元15年(1278年)には慶元に帰還し、8月にはクビライに調見した。そこでカラダイは昭武大将軍・沿海左副都元帥・慶元路総管府ダルガチに任じられ、再び水軍を率いて沿海部を守るよう命じられた。また、同年にはもと南宋の都統であった陳懿ら兄弟5人が畲族の兵7000人とともに潮陽県でカラダイ軍に投降した。潮陽県は現代においても畲族の居住地であり、この時投降した陳懿らは日本遠征の準備に助力するなど大元ウルスの海洋進出に大きく貢献した[3]。至元16年(1279年)、日本の商船4般が慶元を訪れた。至元18年(1281年)、輔国上将軍・都元帥に任じられて日本遠征軍に加わったが強風にあって翌年2月に慶元に帰還した。至元22年(1285年)には都元帥を罷免され、改めて沿海上万戸府ダルガチとされた[4]。
至元24年(1287年)、クビライに謁見し、浙東宣慰使の地位を与えられると同時に織文段・玉束帯・鞍勒・弓矢などを下賜された。クビライの死後即位したオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世においても健在で、ラーンナー(八百媳婦)国への遠征にも加わった。大徳11年(1307年)に病で汝州において泣くなり、息子のカラ・ブカが後を継いで沿海万戸府ダルガチとなった[5]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻132列伝19哈剌䚟伝,「哈剌䚟、哈魯氏。初従軍攻襄樊、蒙古四万戸府辟為水軍鎮撫。至元十二年、従丞相伯顔渡江、改管軍百戸、賞甲冑・銀鞘刀。十二年秋、従丞相阿朮与宋兵戦焦山、敗之、獲海舟二。阿朮与王世強招討造白鷂海船百艘、就四十一万戸翼摘遣漢軍三千五百・新附軍一千五百、俾哈剌䚟・王世強並統之。攻宋江陰・許浦・金山・上海・崇明・金浦皆下之、獲海船三百餘艘、遂戍澉浦海口」
- ^ 『元史』巻132列伝19哈剌䚟伝,「十三年春、行省檄充沿海招討副使。宋将張世傑舟師至慶元朐山東門海界、哈剌䚟追之、獲船四艘、上其功、行省增撥軍七百並旧所領士卒、守定海港口。秋七月、宋昌国州・朐山・秀山戍兵舟師千餘艘、攻奪定海港口、哈剌䚟迎撃、虜其裨将並海船三艘。八月、宋兵復攻定海港口、哈剌撃退之、行省檄充蒙古漢軍招討使。十月、哈剌䚟引兵至温州青嶴門、遇宋兵、奪船五艘、遣使諭温州守臣家之柄以城降。十一月、至福州、奪宋海船二十艘、擒毛監丞等」
- ^ 植松1997,382/407頁
- ^ 『元史』巻132列伝19哈剌䚟伝,「十四年、賜金符、宣武将軍・沿海招討副使、行省檄充沿海経略副使、俾与劉万戸行元帥府事于慶元、鎮守沿海上下、南至福建、北至許浦。六月、行省檄充沿海経略使、兼左副都元帥、督造海船千艘。八月、有旨、江西省右丞塔出等進兵攻広南、哈剌以兵従。十月、進昭勇大将軍・沿海招討使。時宋処州兵復温州、哈剌歹率兵復取之。進至潮陽県、宋都統陳懿等兄弟五人以畲兵七千人降。塔出兵攻広州、踰月未下、哈剌䚟引兵継至、諭宋安撫張鎮孫・侍郎譚応斗以城降。従攻張世傑于大洋、獲其軍資器械不可勝計。諭南恩州、宋閤門宣賛・舎人梁国傑以畲軍万人降。十五年、還軍慶元。秋八月、入覲、帝問曰『汝何氏族』。対曰『臣哈魯人』。賜金織文衣・鞍勒、擢昭武大将軍・沿海左副都元帥・慶元路総管府達魯花赤、将所部軍戍海口。十六年、日本商船四艘、篙師二千餘人至慶元港口、哈剌歹諜知其無他、言于行省、与交易而遣之。海賊賀文達・顧潤等寇掠海島、哈剌歹諭降之、得舟六十餘艘。十八年、擢輔国上将軍・都元帥、従国兵征日本、値颶風、舟回。明年二月、還戍慶元。二十二年、罷都元帥、改沿海上万戸府達魯花赤」
- ^ 『元史』巻132列伝19哈剌䚟伝,「二十四年、入朝、帝問日本事宜、哈剌歹応対甚悉、令還戍海道。授浙東宣慰使、賜金織文段・玉束帯・鞍勒・弓矢有差。二十五年、枢密以水軍乏帥、奏兼前職。冬、徴入見。明年、拜金吾衛上将軍・中書左丞、行浙東道宣慰使、軍職如故。大徳五年、徴入見。擢資徳大夫・雲南行省右丞、偕劉深征八百媳婦国。至順元年、宋龍済等叛、喪師而還、深誅、哈剌歹亦以罪廃。十一年、以疾卒于汝州。皇慶元年、贈栄禄大夫・平章政事・鞏国公、諡武恵。子哈剌不花、襲沿海万戸府達魯花赤」
参考文献
[編集]- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227。国立国会図書館書誌ID:000007302776 。
- 『元史』巻132列伝19