コンテンツにスキップ

カリュー男爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カリュー男爵(1834年)
Baron Carew
兼 カリュー男爵(1838年)
創設時期1834年6月13日
創設者ウィリアム4世
貴族アイルランド貴族
初代初代男爵ロバート・カリュー
現所有者7代男爵パトリック・コノリー=カリュー英語版
相続人ウィリアム・コノリー=カリュー
推定相続人エドワード・コノリー=カリュー
付随称号なし
邸宅ウッドストン・ハウス英語版
モットー何事にも動じるなかれ
(Nil Admirari)

カリュー男爵(カリューだんしゃく、: Baron Carew)は、イギリスの男爵貴族。いずれもカリュー家に対する叙爵であり、イングランド貴族アイルランド貴族連合王国貴族としてそれぞれ1度ずつ創設された。このうち、第2期及び第3期が存続している。

歴史[編集]

初代男爵ロバート・カリュー

ウィンザー首席司祭英語版ジョージ・カリュー英語版(1497/1498–1583)の息子ジョージ・カリュー英語版(1555–1629)イングランド王国の軍人、政治家であり、テューダー朝のアイルランド征服英語版で活躍してLord President of Munsterに任命された[1]。彼は1605年5月4日にイングランド貴族であるウォリック州におけるクロップトンのカリュー男爵に叙されたのち、ガーンジー総督を務めるなど政界で引き続き活躍し、1626年2月5日にデヴォン州におけるトットネス伯爵に叙された[2]。彼は庶子トマス・スタッフォード英語版(c.1574–1655)をもうけたものの、嫡子がおらず、その死とともに爵位がすべて廃絶した[3]

ウェックスフォード県出身で政治家ロバート・シャップランド・カリュー(1752–1829)の息子ロバート・シャップランド・カリュー(1787–1856)ホイッグ党所属の庶民院議員を20年以上務めたのち、1834年6月13日にアイルランド貴族であるウェックスフォード県におけるカリュー男爵に叙され、1838年7月9日に連合王国貴族であるウェックスフォード県におけるカースル・ボロのカリュー男爵に叙された[4]1800年合同法の施行以降、新しいアイルランド貴族爵位の創設には既存の爵位が3つ廃絶する必要があり、1834年のカリュー男爵位創設はブランデン男爵フィッツウィリアム子爵ランダフ伯爵の廃絶を根拠とした[5]

その息子である2代男爵ロバート・シャップランド・カリュー(1818–1881)自由党所属の政治家で庶民院議員、ウェックスフォード統監を務めた[5]

2代男爵の弟の孫にあたる6代男爵ウィリアム・フランシス・カリュー英語版(1905–1994)は1938年に「コノリー」を姓に加えた[6]

2024年現在の当主は6代男爵の息子にあたる7代男爵パトリック・トマス・コノリー=カリュー英語版(1938–)である[6][7]

現当主の保有爵位[編集]

男爵家の住むウッドストン・ハウス英語版

現当主の第7代カリュー男爵パトリック・コノリー=カリュー英語版は、以下の爵位を有する。

  • 第7代ウェックスフォード県におけるカリュー男爵(7th Baron Carew, of County Wexford)
    (1834年6月13日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • 第7代ウェックスフォード県カースル・ボロのカリュー男爵(7th Baron Carew, of Castle Boro in the County of Wexford)
    (1838年7月9日の勅許状による連合王国貴族爵位)

カリュー男爵(1605年)[編集]

カリュー男爵(1834年、1838年)[編集]

爵位の法定推定相続人は現当主の息子ウィリアム・パトリック・コノリー=カリュー(1973年 – )で、その法定推定相続人は息子パトリック・エドワード・コノリー=カリュー(2002年 – )である。

出典[編集]

  1. ^ Cokayne & White 1953, pp. 798–799.
  2. ^ Cokayne & White 1953, p. 800.
  3. ^ Cokayne & White 1953, p. 801.
  4. ^ Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, pp. 21–22.
  5. ^ a b Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, p. 22.
  6. ^ a b Cokayne & Hammond 1998, p. 146.
  7. ^ "Lord Carew". UK Parliament (英語). 2024年5月18日閲覧

参考文献[編集]