カルーゼル凱旋門
カルーゼル凱旋門 | |
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L'arc de triomphe du Carrousel | |
概要 | |
所在地 | フランス, パリ |
着工 | 1806 |
完成 | 1808 |
設計・建設 | |
建築家 |
Charles Percier Pierre François Léonard Fontaine |
カルーゼル凱旋門(カルーゼルがいせんもん、フランス語: arc de triomphe du Carrousel)は、パリ1区にある凱旋門であり、かつてテュイルリー宮殿であった公園内のカルーゼル広場に位置する。 1806年から1808年にかけて、前年のナポレオンの勝利を祝するために建設された。 より有名なエトワール凱旋門も同年に設計されたが、エトワールの大きさは約2倍あり、完成までにおおよそ30年を要している。[要出典]
構造
[編集]カルーゼル凱旋門の大きさは、高さ19メートル、巾23メートル、奥行7.3メートルである[1]。 中央のアーチの高さは6.4メートル、両脇の小さなアーチの高さは4.3メートルである。 外回りには花崗岩でできた8本のコリント式コラムがあり、上には帝国の兵士8人の像がある。 兵士の間の破風には、以下のバス・レリーフ(浅浮き彫り)が施されている。
ナポレオンの外交的、軍事的勝利を祝し、バラ大理石にバス・レリーフが施されている。 その意味は以下の通り。
- プレスブルクの和約
- ミュンヘンに入るナポレオン
- ウィーンに入るナポレオン、彫刻は ルイ=ピエール・ドゥセーヌ(Louis-Pierre Deseine)
- アウステルリッツの戦い、彫刻は ジャン=ジョセフ・エスペルシュー(Jean-Joseph Espercieux)
- ティルジットの和約
- ウルムの降伏、彫刻はピエール・カルトリエ(Pierre Cartellier)
当然ながら、アーチはローマ帝国の凱旋門、特にセプティミウス・セウェルスの凱旋門を模している。 バス・レリーフのテーマとなった戦いは、当時ルーヴル宮殿にあったナポレオン博物館の館長 Vivant Denon によって選びだされ、 画家のシャルル・メニエによりデザインされた。
門の頂上にあるクアドリガは、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院正面入り口の上に置かれた、いわゆる「サン・マルコの馬」の複製である。
沿革
[編集]シャルル・ペルシエ Charles Percier 、ピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌ Pierre François Léonard Fontaine 設計により、カルーゼル凱旋門は、ローマにあるコンスタンティヌスの凱旋門 (312 AD) をモデルに、1806年から1808年にかけて建設された。
最初に掲げられていた「サン・マルコの馬」は、1798年にナポレオンが、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院から得たものである。 1815年、ワーテルローの戦いと王政復古のあとフランスは、ウィーン会議に従ってヴェネツィアを併合したオーストリア帝国にクアドリガを譲り渡した。 オーストリア人は直ちにクアドリガを、ヴェネツィアのもとあった位置に戻した。 1828年には、フランソワ・ジョゼフ・ボジオ男爵により彫刻されたクアドリガに置き直された。 これは、両側を金色の勝利に導かれた二輪戦車に乗る、平和の女神を表していた。 ナポレオンの凋落後の、フランス復古王政を祝したものであった。
地理学との関係
[編集]カルーゼル凱旋門は、いわゆる「パリの歴史軸」の東端にある。 パリの歴史軸は長さ9キロメートルの線で、パリの街の北西4分の1円のほとんどを占めている。 いわば右岸の背骨である。
西に目を向けると、凱旋門はコンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼ大通りの中央線、エトワール広場のエトワール凱旋門、またカルーゼル広場から直接は見通せないが、ラ・デファンスの新凱旋門グランダルシュを真正面にとらえている。
このように、「パリの歴史軸」は凱旋門に始まり凱旋門で終わっている。 しかしカルーゼル凱旋門が建設された当時は、カルーゼル広場からは西方がなにも見通せなかった。 テュイルリー宮殿の中央の一角が、西への視線を遮っていた。 テュイルリー宮殿が1871年のパリ・コミューンの際に焼き払われ、その残骸が撤去されて初めて、現代にも残る「大きな歴史軸」がカルーゼル宮殿やルーヴル宮殿にまで開かれた。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ Lynnise Phillips - Pomona College; USA: http://www.paris.org/Monuments/Carrousel/