カロリン諸島
現地名: Caroline Islands | |
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カロリン諸島の位置 | |
地理 | |
場所 | ミクロネシア |
島数 | 約500 |
主要な島 | パラオ・ヤップ・チューク・ポンペイ・コスラエ |
面積 | 1,161 km2 (448 sq mi) |
行政 | |
首都 | パリキール |
最大都市 | ウェノ(人口17,624) |
大統領 | ピーター・マーティン・クリスチャン |
最大都市 | コロール(人口11,200) |
大統領 | トミー・レメンゲサウ |
カロリン諸島(カロリンしょとう、Caroline Islands)は、西太平洋、ミクロネシア南部にある諸島。
概要
[編集]主島は、パラオ諸島(パラオ共和国)ならびにヤップ島、チューク諸島(トラック諸島)、ポンペイ島(ポナペ島)およびコスラエ島(クサイ島)(以上、ミクロネシア連邦)の各島。その他、ウルシー環礁や戦前に日本人画家の土方久功が7年間を過ごしたサタワル島なども有名である[1]。特にサタワル島系の航法師は、1970年代に始まるミクロネシア・ポリネシア諸地域の航海カヌー文化復興運動において中心的な役割を果たし、1975年にはルイス・レッパンルックがチェチェメニ号によってサタワル島から沖縄海洋博公園までの航海を成功させた他、ピウス・ピアイルックはハワイ先住民にミクロネシアの航法術を伝え、ハワイでは「パパ・マウ」と呼ばれている。
歴史
[編集]ヨーロッパ人で最初にカロリン諸島を探検したのはポルトガル人ディエゴ・デ・ローシャ (Diego da Rocha) であり、1527年のことである。彼はこの諸島をセケイラ諸島 (Ilhas Sequeira) と命名した。しかし、初期のスペイン人航海者達はヌエバス・フィリピナス (Nuevas Filipinas) と呼んでいた。1686年、フランシスコ・デ・ラスカーノ提督 (Francisco de Lezcano) がカルロス2世 (Carlos II) にちなみカロリナス (Carolinas) と命名した。
その後スペイン領となり、米西戦争後の1899年、スペインは2,500万ペセタでこの諸島をドイツに売却した[2]。1914年、第一次世界大戦の勃発とともに日本が占領し、ドイツの敗戦に伴い、1920年に日本の委任統治領となった。第二次世界大戦後アメリカの信託統治領となり、1986年にミクロネシア連邦、1994年にパラオ共和国が独立した[3]。
オーストリア帝国による植民地候補となった事もあるが、頓挫した。(結局オーストリアは天津租界以外の海外植民地を保有する事は叶わなかった。)
脚注
[編集]- ^ “土方久功 - 近代文献人名辞典(β)”. lit.kosho.or.jp. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “ドイツ植民地-カロリン諸島, Karolinen, Caroline Islands”. www7b.biglobe.ne.jp. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “カロリン諸島(カロリンしょとう)|用語|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−”. ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−. 2024年12月12日閲覧。