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チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー (初代カーリングフォード男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代カーリングフォード男爵
チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー
Chichester Parkinson-Fortescue
1st Baron Carlingford
生年月日 1823年1月18日
出生地 イギリスの旗 イギリスアイルランドラウス県グリド英語版
没年月日 (1898-01-30) 1898年1月30日(75歳没)
死没地 フランスの旗 フランスマルセイユ
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 自由党自由統一党
称号 初代カーリングフォード男爵、第2代クラーモント男爵聖パトリック勲章士(KP)、枢密顧問官(PC)

内閣 第2次ラッセル伯爵内閣
第一次グラッドストン内閣
在任期間 1865年11月 - 1866年7月
1868年12月 - 1871年1月[1]

内閣 第1次グラッドストン内閣
在任期間 1871年1月14日 - 1874年2月16日[2]

内閣 第2次グラッドストン内閣
在任期間 1881年5月2日 - 1885年6月[1]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 カウンティ・ラウス選挙区英語版[3]
在任期間 1847年7月29日 - 1874年1月31日[3]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1874年2月28日 - 1898年1月30日[3]
テンプレートを表示

初代カーリングフォード男爵・第2代クラーモント男爵チチェスター・サミュエル・パーキンソン=フォーテスキュー英語: Chichester Samuel Parkinson-Fortescue, 1st Baron Carlingford and 2nd Baron Clermont, KP, PC1823年1月18日 - 1898年1月30日)は、アイルランド出身のイギリスの政治家、貴族。

ヴィクトリア朝自由党政権下で閣僚職を歴任した。

経歴

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カーリングフォード卿の肖像画(ジェームズ・ティソ画)

1823年1月18日、チチェスター・フォーテスキュー中佐の次男としてアイルランドラウス県グリド英語版に生まれる。母はマーサ・フォーテスキュー(法廷弁護士サミュエル・ホブハウスの娘)[1]

オックスフォード大学クライスト・チャーチで学び、1845年バチェラー・オブ・アーツ(BA)、1847年マスター・オブ・アーツ英語版(MA)の学位を取得した[4][1]

1847年から1874年までアイルランドのカウンティ・ラウス選挙区英語版から選出されて自由党庶民院議員を務める[1][4]。1848年の処女演説はユダヤ人への差別的取り扱いの除去することを求める物だった[1]

第1次パーマストン子爵内閣期の1857年から1858年、第2次パーマストン子爵内閣期の1859年から1865年副植民地大臣英語版を務めた[1]

1863年に姓をパーキンソン=フォーテスキューに変更した[4]

第2次ラッセル伯爵内閣期の1865年11月から1866年7月にかけてアイルランド担当大臣英語版を務めた[1]

第1次グラッドストン内閣でも1868年12月から1871年1月までアイルランド担当大臣を務め、1869年アイルランド教会法英語版の制定を主導した[1]。1871年1月から商務庁長官に転任し、鉄道の安全性の強化に尽力した[1]。多くのアイルランドの選挙区から選出された庶民院議員と同様に1874年1月から2月の総選挙英語版で落選したが、落選とともにカーリングフォード男爵に叙され、貴族院議員となった[1]

第2次グラッドストン内閣期の1881年5月から1885年6月まで王璽尚書を務めた[1]1883年3月からは枢密院議長も兼務した[1]

1886年1月に第3次グラッドストン内閣が成立した際には海外にあり、またアイルランド自治反対の信念を持っていたため、入閣を求められなかった。アイルランド自治反対の立場を貫いて自由統一党へ移籍し、同党のサマセットにおける指導者となった[1]

1887年7月29日に兄である初代クラーモント男爵トマス・フォーテスキューが死去し、クラーモント男爵位を継承した[1]

1898年1月30日インフルエンザによりフランスマルセイユにおいて死去した[1]

栄典

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爵位

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勲章

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名誉職その他

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Matthew, H. C. G.. “Fortescue, Chichester Samuel Parkinson” (英語). Oxford University Press. 2014年6月14日閲覧。
  2. ^ 秦(2001) p.510
  3. ^ a b c UK Parliament. “Mr Chichester Fortescue” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月14日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “Chichester Samuel Parkinson-Fortescue, 1st and last Baron Carlingford” (英語). thepeerage.com. 2014年6月13日閲覧。

参考文献

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  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 

外部リンク

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公職
先代
ジョン・ボール
副植民地大臣英語版
1857年 - 1858年
次代
第4代カーナーヴォン伯爵
先代
第4代カーナーヴォン伯爵
副植民地大臣
1859年 - 1865年
次代
ウィリアム・エドワード・フォースター英語版
先代
サー・ロバート・ピール准男爵英語版
アイルランド担当大臣英語版
1865年 - 1866年
次代
ネース卿
先代
ジョン・ウィルソン=パッテン英語版
アイルランド担当大臣
1868年 - 1871年
次代
ハーティントン侯爵
先代
ジョン・ブライト
商務庁長官
1871年 - 1874年
次代
サー・チャールズ・アダレイ英語版
先代
第8代アーガイル公爵
王璽尚書
1881年 - 1885年
次代
第5代ローズベリー伯爵
先代
第5代スペンサー伯爵
枢密院議長
1883年 - 1885年
次代
初代クランブルック子爵
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
トマス・ヴィージー・ドーソン
リチャード・モンテスキュー・ベリュー英語版
カウンティ・ラウス選挙区英語版選出庶民院議員
1847年英語版 - 1874年英語版
同一選挙区同時当選者
リチャード・モンテスキュー・ベリュー英語版(-1852)
トリストラム・ケネディー(1852–1857)
ジョン・マクリントック(1857–1859)
リチャード・モンテスキュー・ベリュー英語版(1859–1865)
トリストラム・ケネディー(1865–1868)
マシュー・オライリー・ディーズ英語版(1868–1874)
次代
アレクサンダー・マーティン・サリバン英語版 and
フィリップ・カラン英語版
名誉職
先代
サー・トマス・ウェスタン准男爵英語版
エセックス知事英語版
1873年 - 1892年
次代
第3代レイリー男爵
イギリスの爵位
新設 初代カーリングフォード男爵
1874年 - 1898年
廃絶
アイルランドの爵位
先代
トマス・フォーテスキュー
第2代クラーモント男爵
1887年 - 1898年
廃絶