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カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ
Carl Ditters von Dittersdorf
基本情報
出生名 August Carl Ditters
生誕 (1739-11-02) 1739年11月2日
出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
死没 (1799-10-24) 1799年10月24日(59歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ボヘミア王国、ノイホーフ

カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ男爵Carl(Karl) Ditters Baron von Dittersdorf, 1739年11月2日 - 1799年10月24日[1])は、ハイドンモーツァルトと同時代のウィーンに生れ、ボヘミア・ノイホーフ(チェコ)で没した作曲家ヴァイオリン演奏家。

もとカール・ディッタース(Carl Ditters)と称したが、のちに貴族となり、「ディッタースドルフ男爵」を称した。

略歴

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カール・ディタースの父は神聖ローマ皇帝カール6世の下で宮廷劇場の衣装デザイナー(刺繍職人)としての地位を得ていた。息子カールの音楽への興味に対して身近な音楽家たちを教師に頼み、息子は期待通りの成長をした。更に、早くからザクセン=ヒルトブルクハウゼン公子ヨーゼフ(en, 1702年 - 1787年、神聖ローマ帝国の元帥で数々の戦果を挙げ、皇帝に優遇されていた)に見出され、特別の教育を受けた。

コントラバス協奏曲を残していることから、時にコントラバス奏者と誤解されることもあるが、実際はブルク劇場で定期演奏会が開催されていたほどのヴァイオリン演奏の巨匠であった。当然ヴァイオリン協奏曲も多数作曲している。ディッタースドルフの作品は好評に迎えられ、1760年代初期にはレオポルト・ホフマン(Leopold Hoffmann, 1730年? - 1793年)やヨセフ・ハイドンヴァンハルらと並んで、ウィーンでの楽壇の指導的な立場にあった(ハイドン、モーツァルト、ヴァンハルとは弦楽四重奏を組んだこともある)。特にオペラオペレッタジングシュピールについては、ウィーンばかりでなく広く大衆に普及した。晩年はほとんど見捨てられたようになり、出版社からは出版を断られ、自分の時代が去ったことを自覚していた。最晩年の1799年に自叙伝を書いた。

作品

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  • コントラバスと管弦楽のための協奏曲 変ホ長調
  • ヴィオラ、コントラバスと管弦楽のための協奏交響曲 ニ長調
  • フルート協奏曲 ホ短調
  • オラトリオ
  • 35曲のオペラ
    • 『医師と薬剤師』(Doktor und Apotheker, 1786年、ウィーン初演)
    • 『赤ずきん』(Das rote Käppchen, 1788年、同上) - この曲のアリエッタを元に、ベートーヴェンがピアノのための変奏曲(WoO66)を作曲している。
  • ハープ協奏曲 イ長調
  • 9曲の交響曲 - うち6曲はオウィディウスの『変身物語』による。
  • 6曲の弦楽四重奏曲
  • 12曲の弦楽五重奏曲

など多数。

脚注

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外部リンク

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