ガブリエル・カズベギ
ガブリエル・カズベギ | |
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原語名 | გაბრიელ ყაზბეგი |
生誕 | 1760年代 გაბრიელ ყაზიბეგის ძე ყაზბეგი |
死没 | 1817年3月10日 |
所属組織 | ロシア帝国 |
子息 |
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ガブリエル・カズベギス・ゼ・カズベギ(グルジア語: გაბრიელ ყაზიბეგის ძე ყაზბეგი、グルジア語ラテン翻字: Gabriel Kazibegis dze Kazbegi、1760年代 – 1817年3月10日)は、ジョージアの貴族、カズベギ家当主、ヘヴィ地方の統治者。ロシア帝国の軍人。姓はカズベギシヴィリ(グルジア語: ყაზიბეგიშვილი、グルジア語ラテン翻字: Kazibegishvili)とも表記することがある。実姓はチョピカシヴィリ(グルジア語: ჩოფიკაშვილი、グルジア語ラテン翻字: Chopikashvili)。
生涯
[編集]ガブリエルは、ステパンツミンダのモウラヴィであったカズベグ・チョピカシヴィリの息子として、1760年代に誕生した。父親が没すると、1788年にカルトリ・カヘティ王国の国王エレクレ2世は、ガブリエルをステパンツミンダのモウラヴィに任命した。ガブリエルはダリアリ渓谷を保護し、ロシアとジョージアを結ぶ道路の安全を確保する責務を負った。1801年にロシア帝国がカルトリ・カヘティ王国を併合すると、ガブリエルの政治的立場は急進的に向上した。ガブリエルはモウラヴィ[# 1]として、ジョージアにおけるロシア軍の移動を支援した。この功績により、ガブリエルには金のメダル[# 2]が授与され、1803年に少佐となった。この時期、ガブリエルは姓として「カズベギ」を名乗り始めた。そしてロシアの担当者によると、ステパンツミンダの村もまた同じく「カズベギ」と呼ばれるようになった。
ガブリエルはヘヴィ地方の峡谷で大きな権威を保持した。1804年に発生したムティウレティ反乱では、ロシア軍に協力して反乱の抑え込みを支援した。1812年のカヘティ蜂起でも、ロシアに忠実を尽くした。息子のミヘイルとニコロズは、ともにロシア軍に従事した。
1817年3月10日に死去。ステパンツミンダの聖母教会に埋葬された。
エルグジャ
[編集]ガブリエルは、作家アレクサンドレ・カズベギの祖父である。アレクサンドレの小説『エルグジャ』の登場人物「スヴィモン・チョピカシヴィリ」は、ガブリエルがモデルとなっている。
注釈
[編集]- ^ ロシアの文書では「カピタン=イスプラヴニク」たるガブリエル・カジベコフと言及された。
- ^ アレクサンドル1世の肖像入りで、青のリボンがつけられていた。
参考文献
[編集]- ხევი / სერგი მაკალათია. ტფილისი : სასწავლო-პედაგოგიური სექტორი, 1934;
- მასალები ალექსანდრე ყაზბეგის ბიოგრაფიისათვის : ყაზბეგების საგვარეულოს მოღვაწენი / ვანო შადური ; რედაქტორი: ს. ჯორბენაძე ; თბილისი : თბილისის უნივერსიტეტის გამომცემლობა , 1985; გვ. 19-27.