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ガルシア1世 (ナバラ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガルシア・サンチェス1世
García Sánchez I
ナバラ国王
在位 925年 - 970年

出生 919年ごろ
死去 970年2月22日
埋葬 ナバラ王国、ビジャマヨール・デ・モンハルディン、サン・エステバン・デ・デヨ城
配偶者 アラゴン女伯アンドレゴト・ガリンデス
  テレサ・デ・レオン
子女 サンチョ・ガルセス2世
トダ・ガルセス
ラミロ・ガルセス
ヒメノ・ガルセス
ウラカ・ガルセス
家名 ヒメノ家
王朝 ヒメノ朝
父親 サンチョ1世
母親 トダ・デ・パンプローナ
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ガルシア・サンチェス1世(ガルシア・サンチェス1せい、スペイン語:García Sánchez I, バスク語:Gartzea I.a Santxez, 919年ごろ[注釈 1][2] - 970年2月22日[3][4])は、ヒメノ朝第2代ナバラ国王(パンプローナ国王)(在位:925年 - 970年)。6歳で父の跡を継ぎ王となった。

生涯

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ガルシア1世はパンプローナ王サンチョ1世トダ・デ・パンプローナの息子で、925年に6歳で父の跡を継いでパンプローナ王となり、叔父ヒメノ・ガルセス[注釈 2]と母トダの後見のもとで統治を行った[5]。ガルシア1世の姉妹のうち3人がレオン王と結婚した[6]ウラカラミロ2世[7]オネカアルフォンソ4世[7]、そしてサンチャオルドーニョ2世とそれぞれ結婚した[7][8]。サンチャはオルドーニョ2世の死後、アラバ伯アルバロ・エラメリスと結婚し、さらに2番目の夫の死後にカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスと結婚した[7][8]。また、別の姉妹ベラスキタはアルバロ・エラメリスの前にアラバ伯であったムニオ・ベラスと結婚した。歴史家ゴンサロ・マルティネス・ディエスによると、「ナバラ王朝とレオン王、カスティーリャ伯およびアラバ伯との深い関係は、 共通の敵であるイスラムに対してパンプローナ兵がレオン人とカスティーリャ人と一緒にしばしば戦ったことに反映されている」[7]。王妃トダによって作られたこの同盟網のおかげで、パンプローナはその勢力を増し、イベリア半島のキリスト教王国の情勢において重要な役割を果たすことができた[5]

叔父で後見人のヒメノ・ガルセスが931年5月29日に死去し、ガルシア1世の父の異母兄イニゴ・ガルセスがおそらく摂政の座に就こうとし、さらに甥から王位を簒奪しようとしたとみられる[9]。ガルシア1世と母トダは933年3月9日付のサン・ペドロ・デ・シレサ修道院で発行された特許状においては王や王妃の称号を用いていない[9][注釈 3]。その1年後の934年5月、コルドバのカリフ・アブド・アッラフマーン3世はレオン王ラミロ2世に対し遠征を行った[11]。カリフの当初の意図はカスティーリャに侵入することであったが、サラゴサ総督ムハンマド・イブン・ハーシムが軍に加わることを拒否したため、カリフは計画を変更した。カリフ軍は最初にマルエンダの要塞を攻撃し、次にルエダ・デ・ハロンにあったイブン・ハーシムの要塞を攻撃した[12]。アブド・アッラフマーン3世はパンプローナ王国に侵攻しようとしたときに、軍を撤退させることを求めるトダの使節に会い、両家のつながりを思い起こすこととなった[注釈 4]。トダが甥のアブド・アッラフマーン3世に使節を送った目的は、トダ自身と息子の保護を求め、カリフに「トダの息子ガルシア・サンチェス1世の王位を明確に認めてもらう」ことであった可能性もある[14]。これは、他の王位請求者(イニゴ・ガルセスなど)に直面したときに、ガルシア1世の王位を保証するためであったと考えられる[9]

叔母に一度も会ったことがなかったアブド・アッラフマーン3世は、「トダの真意が誠実であることの証拠として」カラオラの自身の陣営でトダと会うという条件を課した[9]。トダはそれを受け入れ、アブド・アッラフマーン3世に会いに向かった[14]。歴史家イブン・ハイヤーンが記したように、「服従と臣従の協定」の一環として、トダはアブド・アッラフマーン3世に服従し、他のキリスト教徒の支配者、同盟者および親戚と距離を置き支持することを止め、ムスリムを傷つけるようなことはしないと約束した。トダはまた、パンプローナ王国を通るアブド・アッラフマーン3世軍に自由な通過を許可し、償いとして自身が保持していたイスラム教徒の人質を解放しなければならなかった。トダはアブド・アッラフマーン3世のすべての要求に同意し、かわりにアブド・アッラフマーン3世はガルシア1世にパンプローナおよびそのすべての領地を安堵した。トダは、アブド・アッラフマーン3世から与えられた豪華な贈り物を持って、同日のうちに出発した[15]。その後まもなく、イスラム教徒の軍はパンプローナ王国の領土を速やかに横切り被害を及ぼさないようにし、隣接するアラバとカスティーリャを攻撃し、グラニョンの要塞を攻撃した。また、イスラム軍は行軍の途中で作物を焼き、果樹を切り倒し、ぶどう畑や建物を破壊した[注釈 5]

937年、ガルシア1世はレオン王ラミロ2世とサラゴサ総督ムハンマド・イブン・ハーシムと同盟を結び、アブド・アッラフマーン3世がカラタユーとサラゴサを経由してパンプローナ王国に対し遠征を行った[17]。ガルシア1世は939年7月のシマンカスの戦いにラミロ2世やカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスと共に参加し、キリスト教軍がカリフ軍を敗北させた[18]。このどんでん返しの後、アブド・アッラフマーン3世は940年3月にさらなる遠征を計画していたが、停戦を交渉するためラミロ2世から使者を受け取ったときにすべての計画を保留にした。これに対し、カリフも交渉のために使節をレオン宮廷に派遣した[19]。ほぼ同時期かそれ以前に、カリフはバルセロナ伯スニエーとの会談も開始し、その結果2年間の休戦となった。キリスト教徒にとって商業的に非常に好都合なこの協定には、いくつかの条件が含まれていた。そのうちの1つが、ガルシア1世とスニエーの娘との結婚計画の中止(または婚姻の無効)であった[注釈 6]。ラミロ2世とアブド・アッラフマーン3世の間の和平交渉は、941年の夏まで終結しなかった[21]。ラミロ2世は、コルドバのカリフと戦争状態にある唯一のキリスト教徒の支配者として自身がアブド・アッラフマーン3世の管理下に置かれるよりは、パンプローナ王ガルシア・サンチェス1世をも巻き込むことに大きな関心を持っていたため、この和平には、サンタレンからウエスカまでの、レオン王国とパンプローナ王国の間のすべての辺境領が含まれていた[21]

ラミロ2世およびその跡を継いだオルドーニョ3世の死後、パンプローナ王国は、オルドーニョ3世の弟でガルシア1世の甥であるレオン王サンチョ1世を支援した[3]。ガルシア1世の義兄弟で後に義理の息子となるカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスが、自身の義理の息子であるオルドーニョ4世を支援し、サンチョ1世を退位させオルドーニョ4世を王位に就けたとき、フェルナン・ゴンサレスとガルシア1世の関係は緊張状態となった[3]。さらに翌年、フェルナン・ゴンサレスの妃でガルシア1世の姉妹サンチャが死去したことで、両家の関係は断絶した。ガルシア1世は直接レオン王国に介入し、フェルナン・ゴンサレスを捕らえ、サンチョ1世を復位させた。フェルナン・ゴンサレスは自身が解放されるために領土に関してガルシア1世に対し譲歩を余儀なくされ、フェルナン・ゴンサレスがガルシア1世の娘ウラカと再婚する964年まで、両家の同盟は完全には回復されなかった。

ガルシア1世は970年2月22日に死去し[4]、ビジャマヨール・デ・モンハルディンにあったサン・エステバン・デ・デヨ城に埋葬された[22]

結婚と子女

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ガルシア1世は最初にアラゴン伯ガリンド2世・アスナーレスとサンチャ・ガルセス(ガルシア1世の伯母)の娘アンドレゴト・ガリンデスと結婚した[注釈 7]。ガリンド2世・アスナーレスには男子継承者がいなかったため[24]、アラゴン伯領に対する権利はアンドレゴトに、そしてさらにアンドレゴトとガルシア1世の長男にパンプローナ王国内の伯領として権利が継承された[注釈 8]。ガルシア1世とアンドレゴトの間には以下の子女が生まれた。

942年、アンドレゴトは夫ガルシア1世により結婚を解消された[25]。アンドレゴトはアイバルの自身の領地に隠棲し、同地で971年6月以降に死去した[注釈 10]

ガルシア1世はバルセロナ伯スニエーの娘との結婚に合意したが、スニエーがアブド・アッラフマーン3世に降伏した時にこの結婚の合意は破棄された[20]。943年までに、ガルシア1世はレオン王ラミロ2世アドシンダ・グティエレスの娘テレサと結婚した[25][注釈 11]。2人の間には以下の子女が生まれた。

注釈

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  1. ^ ロダ写本』内の『パンプローナ年代記』には、ガルシア1世は王になったときに12歳であったと記されている。これは通常、919年の誕生と931年の叔父の死後の継承を反映していると解釈される。しかし、同じ写本に11世紀に追加された『パンプローナ王国の始まり(Initium regnum Pampilonam)』には、970年2月のガルシア1世の死の時点において、ガルシア1世は35年間統治していたと記されており、ガルシア1世の母親が摂政を退任した934年を即位年として使用していたようである。これが『パンプローナ年代記』に記された日付である場合、代わりに彼の誕生は922年ごろとなる[1]
  2. ^ ガルシア1世の父の死後、彼の後見人であるヒメノ・ガルセスが王国の統治を任された。ゴンサロ・マルティネス・ディエスによれば、ヒメノは時々王や王子の称号を帯びて確認され、ヒメノは甥に代わって統治したが、ガルシア1世との関係に問題や不和の記録はない[5]
  3. ^ ガルシア1世が行ったいくつかの寄進と、ガリンド・アスナール、および別のガリンド伯の寄進を承認する特許状において、Garsea SanzonisTota Isenariと署名されている[10]
  4. ^ トダはアブド・アッラフマーン3世の父の異父妹であり、アブド・アッラフマーン3世にとって叔母にあたる[13]
  5. ^ 「トダは、カリフへの服従により、トダと息子の王位への支持を得て、同時に上陸しようとしていたハリケーンからパンプローナ王国を救い、カリフが彼女の領地を自由に通過できるようにした。923年以来、パンプローナの主権の下で、当時ラ・リオハに面していた最初の要塞はグラニョンであった。知的な政治は正確には寛大ではなく、連帯に基づいているわけではないが、生き残るための必要性と切なる思いが法となることもある。」 (翻訳)[16]
  6. ^ マルティネス・ディエスは、イブン・ハヤンのアル・ヌクタビス(Vol. V, Viguera-Corrienteによる翻訳, pp. 341–342)に言及し、バルセロナ伯が娘をガルシア1世と結婚させたが、休戦を条件に結婚は取り消されたと述べている[20]
  7. ^ ガルシア1世の父パンプローナ王サンチョ1世は、アンドレゴトの母であるサンチャ・ガルセスの異母弟であり、どちらもパンプローナのガルシア・ヒメネスの子供であった。サンチョ1世はガルシア・ヒメネスの2番目の妻ダディルディス・デ・パリャースの息子であり、サンチャは最初の妻オネカ・レベーレ・デ・サングエサの娘である[23]
  8. ^ 「...パンプローナとアラゴンの両方の領土はヒメノ朝で「統合された」が、アラゴン伯領は常にパンプローナ王国内において自治領土として独自性を維持していた。」(翻訳)[24]
  9. ^ 991年2月15日、サンチョ2世は妹のトダとともに、バヤコア修道院をイバルゴイティの谷にあるブドウ園とともにレイレ修道院に寄進した[26]
  10. ^ 971年6月29日、アンドレゴトは息子サンチョとその妃ウラカ・フェルナンデスと共に、ハビエル・デ・マルテスの村とそのすべての領地をサン・ペドロ・デ・シレサ修道院に寄進した[27]
  11. ^ 夫妻は、943年にサン・ミジャン・デ・スソ修道院の特許状に初めて一緒に確認される[28]
  12. ^ 978年2月15日、サンチョ2世とその妃ウラカは、germanis nostris(我々の弟妹)と呼ばれたラミロ王子およびヒメノ王女と共に、genitor noster Garsea rex(我々の父ガルシア王)からの寄付をサン・ペドロ・デ・シレーサ修道院に対し追認した[31]。同年、ヒメノはカスティーリャ伯ガルシア・フェルナンデスが娘のウラカのために創建したコバルビアスのインファンタードの創設に立ち会い、特許状に署名した(Sancio rex, confirmans; Urraca regina confirmans; rege Scemeno confirmans)。このregeという称号はパンプローナ王国で王の子供たちによりしばしば使用されたため、この用語を「王」として解釈すべきではない[32]
  13. ^ ウラカの息子ベルナルドは1008年に、すでに亡くなっている母親について言及している[33]
  14. ^ ウラカは通常、ガルシア1世の2番目の妃から生まれた娘とされる。マルティネス・ディエスは『Sancho III el Mayor: rey de Pamplona, Rex Ibericus』において、ウラカをアンドレゴトの娘とし、テレサから同名の次女が生まれたとした[36]。フェルナン・ゴンサレスの未亡人は通常、1041年に死去したガスコーニュ公妃ウラカと同一視されているため、以前からの年代記はこの説とは矛盾する。しかし、ハイメ・デ・サラザール・イ・アチャは依然としてウラカがテレサの娘であるとしている一方で、彼女の死が1008年までであったことを示しており、1041年に死去した人物はカスティーリャのサンチョ・ガルシアの娘で、ウラカの姪にあたり息子ガスコーニュ公サンシュ6世・ギヨームの未亡人ウラカ・サンチェスであると結論づけた[7][34]。これによりマルティネス・ディエスの説が可能となるが、アンドレゴトの離婚から20年以上経った961年から964年の間にウラカがフェルナン・ゴンサレスと結婚したことにより、テレサが母親であった可能性が高い。

脚注

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  1. ^ Ubieto Arteta 1963, pp. 81–82.
  2. ^ Cañada Juste 1981, p. 22.
  3. ^ a b c Martínez Díez 2007, p. 29.
  4. ^ a b Cañada Juste 1981, p. 28.
  5. ^ a b c Martínez Díez 2005, p. 310, vol. I.
  6. ^ Cañada Juste 1981, p. 23.
  7. ^ a b c d e f Martínez Díez 2007, p. 27.
  8. ^ a b Salazar y Acha 2006, p. 35.
  9. ^ a b c d Martínez Díez 2005, p. 315, vol. I.
  10. ^ Ubieto Arteta 1986, pp. 27–28, doc. 8.
  11. ^ Martínez Díez 2005, p. 312, vol. I.
  12. ^ Martínez Díez 2005, pp. 312–314, vol. I.
  13. ^ Martínez Díez 2005, p. 314, vol. I.
  14. ^ a b Martín Duque 2002, p. 878.
  15. ^ Martínez Díez 2005, pp. 315–316, vol. I.
  16. ^ Martínez Díez 2005, p. 317, vol. I.
  17. ^ Ubieto Arteta 1963, p. 81.
  18. ^ Martínez Díez 2005, p. 356, vol. I.
  19. ^ Martínez Díez 2005, pp. 363–364, vol. I.
  20. ^ a b Martínez Díez 2005, p. 364, vol. I.
  21. ^ a b Martínez Díez 2005, p. 369, vol. I.
  22. ^ (スペイン語) Enciclopedia universal ilustrada europeo-americana. J. Espasa. (1923). pp. 947. https://books.google.com/books?id=TJ5DAQAAMAAJ&pg=PA947 
  23. ^ Lacarra de Miguel 1945, p. 208–209.
  24. ^ a b Martínez Díez 2007, p. 31.
  25. ^ a b c d Salazar y Acha 2006, p. 39.
  26. ^ Martín Duque 1983, pp. 24–25. doc, 10.
  27. ^ Ubieto Arteta 1986, pp. 30–31, doc. 10.
  28. ^ Ubieto Arteta 1976, pp. 45–46.
  29. ^ Cañada Juste 1981, p. 37.
  30. ^ Martínez Díez 2007, p. 37.
  31. ^ Ubieto Arteta 1986, pp. 32–33, doc. 11.
  32. ^ Martínez Díez 2005, p. 490, vol. II.
  33. ^ Salazar y Acha 2006, p. 37, n. 48.
  34. ^ a b Salazar y Acha 2006, pp. 36–37.
  35. ^ Martínez Díez 2007, p. 109.
  36. ^ Martínez Díez 2007, p. 28.

参考文献

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二次資料

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一次資料

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  • Martín Duque, Ángel J. (1983) (スペイン語). Documentación medieval de Leire (Siglos IX a XII). Pamplona: Diputación Foral de Navarra, Institución Príncipe de Viana. ISBN 8423506258 
  • Ubieto Arteta, Antonio (1976) (スペイン語). Cartulario de San Millán de la Cogolla (759-1076). Zaragoza: Anubar Ediciones. ISBN 84-7013-082-X 
  • Ubieto Arteta, Antonio (1986) (スペイン語). Cartulario de Siresa. Zaragoza: Anubar Ediciones. ISBN 84-7013-217-2