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ガルシア3世 (ナバラ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガルシア・サンチェス3世
García Sánchez III
ナバラ国王
在位 1035年 - 1054年

出生 1012年ごろ
ナバラ王国ナヘラ
死去 1054年9月1日
カスティーリャ伯領アタプエルカ
埋葬 ナバラ王国ナヘラ、サンタ・マリア・ラ・レアル修道院
配偶者 エステファニア
子女 本文参照
家名 ヒメノ家
王朝 ヒメノ朝
父親 サンチョ3世
母親 ムニア・エルビラ
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ガルシア・サンチェス3世スペイン語:García Sánchez III, バスク語:Gartzea III. a Sanoitz, 1012年ごろ - 1054年9月1日[1]は、ナバラ王国国王(在位:1035年 - 1054年)。ガルシア・エル・デ・ナヘラスペイン語:García el de Nájera, バスク語:Gartzea Naiarakoa)と呼ばれた。アラバ伯でもあり、カスティーリャ伯領の一部も個人的に支配していた。ナバラ王サンチョ3世の嫡出の長男としてナバラ王位を継承し、2人の兄弟ラミロ1世アラゴン王国となる領地を継承)およびゴンサロ(ソブラルベ伯領およびリバゴルサ伯領を継承)の上級領主となった。同様に、弟フェルナンド1世に対する宗主権をも主張した。フェルナンド1世は、父サンチョ3世の下でカスティーリャ伯を務め、名目上はレオン王国に属していたが、サンチョ3世の個人的な支配下に置かれた。

生涯

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1035年に父サンチョ3世が死去した後、兄ラミロは庶子であったため、嫡出の長男であったガルシア・サンチェスがナバラ王国の王位を継承した。1043年、ガルシア・サンチェスは異母兄ラミロに勝利し、王国の東の国境を定めた。ガルシア・サンチェスは、1045年にカラオラの町を占領し、コルドバ後ウマイヤ朝の解体後に成立した多数のイスラム教国タイファが弱体化した状況を利用し、南部の国境を彼らの領土上にまで押し上げた。また、ガルシア・サンチェスは父よりアラバとカスティーリャ伯領の大部分(ラ・ブレバ、トラスミエラ、モンテス・デ・オカ、エンカルテリ、ラス・メリンダデス)も継承した。

1037年、ピスエルガ川近くで行われた、弟で名目上のカスティーリャ伯フェルナンド1世レオン王国に対する戦い(タマロンの戦い)に、ガルシア・サンチェスも参加した。レオン王ベルムード3世は敗れて戦死し、カンタブリア公ペドロに始まるカンタブリア=ペラーヨ王家は断絶した。その後、弟フェルナンド1世はレオン王として戴冠した[2]。しかし、ガルシア・サンチェスとフェルナンドの関係は、レオンとナバラの間にあったカスティーリャの領地の分配をめぐる対立によって悪化した。その結果アタプエルカの戦いが起こり、ガルシア・サンチェスはこの戦いにおいて戦死した[1][3]

結婚と子女

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1038年にバルセロナにおいてエステファニアと結婚した。エステファニアはビゴール伯ベルナール=ロジェ[4]あるいはバルセロナ伯バランゲー・ラモン1世[5]の末娘と考えられている。2人の間には9子が生まれた。

  • サンチョ・ガルセス4世(1039年頃 - 1076年) - 高貴王とよばれる。ナバラ王(1054年 - 1076年)。プラセンシア・ド・ノルマンディーと結婚。
  • ウラカ・ガルセス - 1074年にナヘラおよびグラニョンの領主ガルシア・オルドーニェス(en)と結婚
  • エルメシンダ・ガルセス(1110年7月1日以降没) - イェケダ領主フォルトゥン・サンチェスと結婚
  • ラミロ・ガルセス(1083年1月6日没) - カラオラ領主
  • フェルナンド・ガルセス(1068年没) - ブセスタ、フベラ、ラグニージャおよびオプレラの領主
  • ラモン・ガルセス(1079年以降没) - ムリージョおよびアゴンシリョの領主。兄サンチョ・ガルセス4世を殺害した後、「兄弟殺し」(el Fratricida)といわれた。その後、サラゴサ王国に逃亡した。1134年の特許状では、アズナール・ロペスの妻マルケサの祖父を"rex Raymundi"(ラモン王)としている。しかし、中世のナバラでは王族に対しこの用語を使用する例があり、これは必ずしもラモンが兄の死により王位を主張したとみる必要はない[6]
  • ヒメナ・ガルセス(1085年5月27日以降没) - コルクエトス、オルノス・デ・モンカルビリョおよびダロカの女領主[7]
  • マヨール・ガルセス(1115年以降没) - ヤングアス女領主
  • サンチャ・ガルセス(1065年没)

また、愛妾との間に2人の庶子をもうけた。

脚注

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  1. ^ a b Europäische Stammtafeln: II #56, III.1 #145; Moriarty, Plantagenet Ancestry of King Edward III and Queen Philippa of Hainault, pp. 80, 109
  2. ^ Reilly 1995, p. 27.
  3. ^ O'Callaghan 1975, p. 195.
  4. ^ Salazar y Achaは、エステファニアはビゴール伯ベルナール=ロジェとその妃ゲルセンダの娘であるというラングドックの歴史家の意見に賛同しており、バルセロナ伯ラモン・ボレイと結婚した母方の叔母エルメザンド・ド・カルカソンヌの宮廷で、エステファニアが侍女としてバルセロナにいたと説明している。
  5. ^ Jackman 2019, p. 29.
  6. ^ Besga Marroquín 2011, pp. 51–91.
  7. ^ 兄ラミロが行った寄付を確認したサンタ・マリア・ラ・レアル修道院の1085年5月27日の記録に最後に確認できる。

参考文献

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  • Reilly, Bernard F. (1995). The Contest of Christian and Muslim Spain 1031–1157. Blackwell Publishers Inc. 
  • O'Callaghan, Joseph F. (1975). A History of Medieval Spain. Cornell University Press 
  • Besga Marroquín, Armando (2011). “El reparto del Reino de Pamplona del año 1076”. Alfonso VI Imperator, totius orbis Hispanie. Fernando Suárez and Andrés Gambra, coord.. Madrid: Sanz y Torres. ISBN 978-84-92948-45-1 
  • Jackman, Donald C. (2019). Agnes through the Looking Glass, Parts I, II & III. Editions Enplage 
  • Martínez Díez, Gonzalo (2007). Sancho III el Mayor Rey de Pamplona, Rex Ibericus. Madrid 
  • Salas Merino, Vicente (2008) (Spanish). La Genealogía de Los Reyes de España [The Genealogy of the Kings of Spain] (4th ed.). Madrid: Editorial Visión Libros. pp. 216–218. ISBN 978-84-9821-767-4. https://books.google.com/books?id=s-YxL2tIbEgC 
  • Salazar y Acha, Jaime de (1992). “Reflexiones sobre la posible historicidad de un episodio de la Crónica Najarense”. Príncipe de Viana Anejo 14: 537–564. http://dialnet.unirioja.es/servlet/articulo?codigo=15990.