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キルワ・キヴィンジェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キルワ・キヴィンジェ
ドイツ植民地時代の建物
ドイツ植民地時代の建物
キルワ・キヴィンジェの位置(タンザニア内)
キルワ・キヴィンジェ
キルワ・キヴィンジェ
タンザニア内の位置
南緯8度44分52秒 東経39度24分48秒 / 南緯8.74778度 東経39.41333度 / -8.74778; 39.41333座標: 南緯8度44分52秒 東経39度24分48秒 / 南緯8.74778度 東経39.41333度 / -8.74778; 39.41333
タンザニアの旗 タンザニア
リンディ州
キルワ県
等時帯 UTC+3 (東アフリカ時間)

キルワ・キヴィンジェ(Kilwa Kivinje)は、タンザニア都市リンディ州キルワ県に属する。1998年当時の人口は約10,000人[1]

キルワ・キヴィンジェはダルエスサラームの南216km、リンディの北145kmに位置する[1]キルワ島対岸の町キルワ・マソコから北に25km離れた場所にあり[2]、マタンドゥ河口南岸に臨む。コプラ綿花トウモロコシが主要な農産物となっている[1]

18世紀後半から19世紀にかけて、キルワ・キヴィンジェはニャサ湖方面からキャラバンによって運ばれる象牙奴隷の終着地となり、それらの商品はモーリシャスザンジバルに輸出された[2]イギリスによって奴隷貿易が禁止された後、町は次第に廃れていった[2]1886年ドイツの行政府が設置され、アブシリの反乱マジ・マジ反乱第一次世界大戦ではキルワ・キヴィンジェでも戦闘が発生した。20世紀半ばまでキルワ・キヴィンジェには県庁所在地が置かれていたが、タンザニアの独立後はキルワ・マソコが県の行政の中心となる。

ドイツの大砲、植民地時代の病院がキルワ・キヴィンジェに残されている。しかし、かつての目抜き通りに建てられた建築物の多くは崩壊寸前の状態になっている[3]

脚注

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  1. ^ a b c 加藤「キルワキヴィンジェ」『世界地名大事典』3、324頁
  2. ^ a b c 栗田、根本『タンザニアを知るための60章』、275頁
  3. ^ 栗田、根本『タンザニアを知るための60章』第2版、265頁

参考文献

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  • 加藤正彦「キルワキヴィンジェ」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)
  • 栗田和明、根本利通編著『タンザニアを知るための60章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2006年7月)
  • 栗田和明、根本利通編著『タンザニアを知るための60章』第2版(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2015年4月)