キンスキー家
キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウ家(Kinsky von Wchinitz und Tettau)は、ボヘミアの上級貴族の家系。最初は家名としてヴヒンスキー家(Wchinsky)を名乗った。17世紀に伯爵位を獲得し、1747年に侯(Fürst)の爵位を受けた。
歴史
[編集]一族の先祖は1150年まで遡ることが出来るが、史料において初めて登場するのは1237年5月16日である。同家のプロティヴェツ(Protivec)とヴェツェミル(Vecemil)の兄弟は1307年5月1日、リトムニェジツェ郊外の居城ヴヒニッツ城(現在のヴヒニツェ)に因んでヴヒニッツ(von Wchynic)の姓を名乗ったことが確認される。1596年3月13日、同家は領主としての地位を確認され、家名はヴヒニッツ・ウント・テッタウ(Wchynic und Tettau)に統一された。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の枢密顧問官・財務官であったヴィルヘルム・キンスキーは、1628年7月2日にズナイム(現在のズノイモ)において帝国伯に叙せられた。
キンスキー家は1784年、建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントが設計を担当した、ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン元帥のウィーンの旧邸を購入した。この邸宅はパレ・キンスキー(Palais Kinsky (Wien))と呼ばれ、1987年まで同家が所有した。キンスキー家はこの他にも、プラハのキンスキー宮殿(Palais Goltz-Kinsky)を始めとして多くの城や宮殿を所有していた。同家は1747年、侯家と伯爵家の2系統に分裂した。
1948年に起きた共産党のクーデタ(2月事件)により、キンスキー家は財産没収のうえ国外に追放された。1989年のビロード革命後、政府はキンスキー家の(伯爵家系統の)当主に対し、コスト城(Burg Kost)、カルロヴァ・コルナ城(Schloss Karlova Koruna)、ジェフンスカー・オブラ野生動物園および付属の狩猟用城館(中央ボヘミア州ニンブルク郡クニェジチキ郊外)の所有権を返還した。
著名な成員
[編集]- ベルタ・フォン・ズットナー(1843年 - 1914年) - 小説家、平和運動家、ノーベル平和賞受賞者
- フランツィスカ・キンスキー(1813年 - 1881年) - リヒテンシュタイン侯アロイス2世の妻
- マリー・キンスキー(1940年 - 2021年) - リヒテンシュタイン侯ハンス・アダム2世の妻
参考文献
[編集]- Genealogisches Handbuch des Adels, Adelslexikon Band VI, Band 91 der Gesamtreihe, S. 233-234, C. A. Starke Verlag, Limburg (Lahn) 1987, ISSN 0435-2408
- Seger, Otto: Überblick über die Geschichte des Hauses Kinsky // In : Jahrbuch des Historischen Vereins für das Fürstentum Liechtenstein, Bd. 66, 1967, S. 15 - 35
- VALENTA, Aleš. Dějiny rodu Kinských. České Budějovice : Veduta, 2004. ISBN 80-86829-05-7.
- HALADA, Jan. Lexikon české šlechty. Praha : Akropolis, 1999. ISBN 80-85770-79-2. Heslo Kinští, s. 265-267.
- MAŠEK, Petr. Modrá krev. Praha : Mladá fronta, 1999. ISBN 80-204-0760-X. Heslo Kinští, s. 129-133.
- RICHTER, Karel. Sága rodu Kinských. [s.l.] : [s.n.]. 54 s. Pravděpodobně vydáno nákladem chlumecké větve Kinských.
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、Kinskyに関するメディアがあります。