ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー
ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー Günther-Eberhardt Wisliceny | |
---|---|
ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー(1943年) | |
生誕 |
1912年9月5日 ドイツ帝国 プロイセン王国 エンゲルブルク |
死没 |
1985年8月25日 ドイツ連邦共和国 ハノーファー |
所属組織 | 武装親衛隊 |
最終階級 | 親衛隊中佐 |
ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー(ドイツ語: Günther-Eberhardt Wisliceny、1912年9月5日 - 1985年8月25日)は、ドイツの軍人。最終階級は親衛隊中佐。
経歴
[編集]ヴィスリツェニーは1912年9月5日にプロイセン王国のエンゲルブルク(現ポーランド・ヴェンゴジェヴォ)に生まれた。国家社会主義ドイツ労働者党(党員番号1,187,703)と親衛隊(隊員番号41,043)に加入した彼は、1933年にSSシュタプスヴァッヘベルリンに選抜され、1938年に第4SS装甲擲弾兵連隊へ入隊した。
第二次世界大戦勃発後の1941年春にヴィスリツェニーは第11SS歩兵連隊第8中隊の中隊長となり、バルカン諸国で彼の連隊は運用された。同年12月6日に負傷し、一時戦線を退く。1942年3月に復帰した彼はSS装甲擲弾兵連隊「ドイッチュラント」第3大隊を引き継いだ。クルスクの戦いに参戦した彼の大隊は、ソ連との激戦区であるベルゴロドに配属された。他のドイツ部隊は壊滅的な打撃を被る中で、彼の大隊は戦闘で勝利を収めた数少ない部隊である。この功績により、1943年7月30日に騎士鉄十字章を受章した。1944年12月26日からは第3SS装甲擲弾兵連隊「ドイッチュラント」の司令官に就任し、西部戦線に配属された。
アイフェル、アルデンヌ、ハンガリーなどでの戦闘を経てオーストリアで終戦を迎えたヴィスリツェニーは、一度アメリカ軍に捕らわれた後フランス軍へ引き渡された。彼の部隊はチュールやオラドゥール=シュル=グラヌでの戦争犯罪を問われたが、1951年に彼は釈放されている。
彼の兄であるディーター・ヴィスリツェニーは戦後ホロコーストへの関与を問われて死刑に処された。
叙勲
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e Veit Scherzer: Die Ritterkreuzträger 1939–1945 Die Inhaber des Eisernen Kreuzes von Heer, Luftwaffe, Kriegsmarine, Waffen-SS, Volkssturm sowie mit Deutschland verbündete Streitkräfte nach den Unterlagen des Bundesarchivs , Scherzers Militaer-Verlag, Ranis/Jena 2007, ISBN 978-3-938845-17-2, S. 790