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ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー
Günther-Eberhardt Wisliceny
ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニー(1943年)
生誕 1912年9月5日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国
エンゲルブルク
死没 1985年8月25日
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
ハノーファー
所属組織 武装親衛隊
最終階級 親衛隊中佐
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ギュンター=エーベルハルト・ヴィスリツェニードイツ語: Günther-Eberhardt Wisliceny1912年9月5日 - 1985年8月25日)は、ドイツの軍人。最終階級は親衛隊中佐

経歴

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ヴィスリツェニーは1912年9月5日プロイセン王国のエンゲルブルク(現ポーランドヴェンゴジェヴォドイツ語版)に生まれた。国家社会主義ドイツ労働者党(党員番号1,187,703)と親衛隊(隊員番号41,043)に加入した彼は、1933年にSSシュタプスヴァッヘベルリンに選抜され、1938年第4SS装甲擲弾兵連隊ドイツ語版へ入隊した。

第二次世界大戦勃発後の1941年春にヴィスリツェニーは第11SS歩兵連隊第8中隊の中隊長となり、バルカン諸国で彼の連隊は運用された。同年12月6日に負傷し、一時戦線を退く。1942年3月に復帰した彼はSS装甲擲弾兵連隊「ドイッチュラント」第3大隊を引き継いだ。クルスクの戦いに参戦した彼の大隊は、ソ連との激戦区であるベルゴロドに配属された。他のドイツ部隊は壊滅的な打撃を被る中で、彼の大隊は戦闘で勝利を収めた数少ない部隊である。この功績により、1943年7月30日騎士鉄十字章を受章した。1944年12月26日からは第3SS装甲擲弾兵連隊「ドイッチュラント」の司令官に就任し、西部戦線に配属された。

アイフェルアルデンヌハンガリーなどでの戦闘を経てオーストリアで終戦を迎えたヴィスリツェニーは、一度アメリカ軍に捕らわれた後フランス軍へ引き渡された。彼の部隊はチュールオラドゥール=シュル=グラヌでの戦争犯罪を問われたが、1951年に彼は釈放されている。

彼の兄であるディーター・ヴィスリツェニーは戦後ホロコーストへの関与を問われて死刑に処された。

叙勲

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脚注

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  1. ^ a b c d e Veit Scherzer: Die Ritterkreuzträger 1939–1945 Die Inhaber des Eisernen Kreuzes von Heer, Luftwaffe, Kriegsmarine, Waffen-SS, Volkssturm sowie mit Deutschland verbündete Streitkräfte nach den Unterlagen des Bundesarchivs , Scherzers Militaer-Verlag, Ranis/Jena 2007, ISBN 978-3-938845-17-2, S. 790