コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ギー1世 (ロシュフォール伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ギー1世・ド・ロシュフォール
Gui Ier de Rochefort
ロシュフォール伯

称号 シュヴルーズ卿
シャトーフォール卿
グルネー=シュル=マルヌ卿
クレシー=アン=ブリー卿
出生 1055年
死去 1108年
配偶者 アデライード・ド・ロシュフォール
  エリザベート・ド・クレシー
子女 アデライード・ド・ロシュフォールの子
ギー3世
ベアトリス
アニェス
エリザベート・ド・クレシーの子
ユーグ
ビオット
リュシエンヌ
ベアトリクス
ギー2世
家名 モンレリ家
父親 モンレリ卿ギー1世
母親 オディエルヌ・ド・ゴメッツ
役職 フランス王家セネシャル
渾名 赤毛伯
テンプレートを表示

ギー1世・ド・ロシュフォールGui Ier de Rochefort, 1055年 - 1108年)あるいはギー2世・ド・モンレリGui II de Montlhéry)、また髪が赤毛であったことで知られル・ルージュLe Rouge, 赤毛伯)とも称された[1]。同名の甥モンレリ卿ギー2世がいる。

中世フランス王国フィリップ1世の臣下の中で重役を歴任した人物。ロシュフォール伯であり、シュヴルーズ、シャトーフォールフランス語版、 グルネー=シュル=マルヌフランス語版、クレシー=アン=ブリーフランス語版の領主であり、さらにブレタンクールフランス語版城主であった。

生涯

[編集]

ギーは父モンレリ卿ギー1世と母アラスのラ・フェルテ(フランス語版)女卿オディエルヌ・ド・ゴメッツフランス語版の次男として生まれた。[2]

そのため、モンレリ城・領の相続人は長男である兄ミロン1世フランス語版に指定されていた。

ギーはロシュフォール伯家の女性相続人アデライード・ド・ロシュフォールと結婚し、その恩恵によりロシュフォール伯位を得た。

1063年に父と一緒にサン=ピエール・ダノン修道院(フランス語訳)に与えられた2つの王室の勅許状に署名して[3] 以降、ロシュフォール伯ギー1世と名乗るようになった。

ロシュフォール伯となったギーは、ロシュフォール伯領近郊のソンシャン小修道院に関する論争のために、サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院(フランス語版)の修道僧たちを暴行した。

父に素行を咎められたギーは所領に不当に課していた関税を放棄した。それは1067年に王フィリップ1世の証書によって確認されている。[4], [5]グラン=ボーリュにあるハンセン病療養所に自分の所領ロシュフォールから毎年5キュビトの鉄を徴収するように命じた[6]

父モンレリ伯ギー1世がロンポンに隠棲した際、ロシュフォール伯ギー1世は、親の相続人となる子女より年少の者に母方の財産を譲渡する慣習に従い、グルネー(フランス語版)とシャトーフォール(フランス語版)領の3分の1を所有することになった。その後、ラ・フェルテ=ボードゥアン(フランス語版)とゴメッツ=ル=シャテル(フランス語版)領を受領し、妻アデライードの持参金であったラ・フェルテ領全体を相続し、所有するに至った。

1079年頃、パリのノートルダム寺院院長ジャン・ド・グランポンが就任する前に、ギーと妻アデライード(アラ)は、イットヴィル(フランス語版)の土地、ブシェとサントーバンの土地で徴収した正当な関税と不当な関税、ガレンヌと道路の権利、ル・ブーシェのブドウ畑をすべてノートルダム寺院パリ支部に布施として寄付した。[7]

そのようなことをしてもギーは1091年には国王フィリップ1世の信頼を得て、『ルペフォルティの署名,Signum Widonis dapiferi de Rupeforti』が国王の免状に与えられ、外祖父に当たるブルゴーニュイル=ド=フランス卿ギー・ド・ヌヴェールフランス語版と同様にフランス王付きのセネシャルとなり1091年から1095年迄の間務めた[8]

1092年には免状が発行され、フィリップ1世は王家のセネシャルとしたギーにシャルトル司教シャルトルのイヴォ1040年-1116年頃)と交渉し、アンジュー伯フルク4世ベルトラード・ド・モンフォール(1070-1117年頃)との結婚を認める教皇からの書簡を、いかなる手段を行使してでも入手するように命じた。

以降、ギーはベルトラードとフィリップ1世の結婚を承認する教皇からの手紙を強引に入手した。

1093年1095年の2通の手紙は今でも保存されており、それによるとフィリップ1世とベルトラードの結婚を認めることを教会は拒否している。

そのため教皇ウルバヌス2世の首席司教であったユーグ・ド・ディー(フランス語版)(1040年頃-1106年頃)は、1094年10月、彼の主宰するオータン宗教会議で、彼の要請によりフランス王フィリップ1世を破門し、その破門は1095年のクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世(1042年-1099年)自身によって確認され、1096年から1104年までの間、フランス王国に聖務停止命令が出された。

教皇ウルバヌス2世は1094年のその別の証書に署名し、1095年末にも別の証書に署名した後、1096年に教皇を辞職し第1回十字軍にて聖地巡礼の旅に出たとされる。

後にフランス王の協力を得たかった教皇パスカリス2世1050年-1118年頃)によってフランス王国の聖務停止命令が解除された。


1094年、ギーと妻アデライードは、教皇にラ・フェルテ=ボードゥアン(フェルテ=アレ)の教会、製粉所や共同釜の什器、領地全体の耕作可能な土地を寄進した。

当時から後のフランス革命までの間、ラ・フェルテは修道院と道路という2つの領地に分割されており、修道院フランス語版は、町とその領土の半分が領有権に含まれていた。名目上修道院長が首長となり司法を行っていた。[9]

ギー1世及び息子ユーグは、1079年~1108年に後に即位したルイ6世が息子のユーグに引き継がせるまで、ラ・フェルテの領主であった。

1096年第1回十字軍遠征に出発し、1104年に帰国した。1101年6月初旬にギーはニコメディアにいたことが証明されており、翌年8月5日にはアメイジア付近でトルコ人と戦い、コンスタンティノープルに到着した生存者の中に含まれていた。

ギーは称賛され誇らしげにフランスに帰還した。[10][11]

ギーは後妻エリザベート・ド・クレシーとの娘、リュシエンヌルイ王太子に嫁がせた。この縁組は、王室に対するギーの影響力を強めたが、その一方で他の王侯貴族達から妬みと反感を買った。

王妃ベルトラード・ド・モンフォールは自分が産んだ王子フィリップ・ド・マントフィリップ1世の次期王に推すロシュフォール家の娘リュシエンヌを政敵であった継子ルイと結婚させ、宮廷内での弱体化を図った。

ルイ王太子はベルトラード王妃及びフィリップ王子派であったロシュフォール伯ギー1世の娘との結婚には非常に不本意であった。

ギーと対立していた親族ガルランド家がロシュフォール家失脚の陰謀を企て、ルイ王太子に継母ベルトラードの計画を明かしたことにより、血縁関係を理由に教皇パスカリウス2世から訴えられ、リュシエンヌとの婚姻の無効が成立した。

ギーは、フィリップ1世崩御後に次代フランス王として即位したルイ6世に反抗し、封臣達を組織し有力者であるシャンパーニュ・ブロワ伯ティボー4世を味方につけることに成功し反乱を起こしたが、最終的にルイ6世により鎮圧された。[12]

王に鎮圧され、失脚したギーは修道僧となり、グルネーの修道院に隠棲し1108年8月以前に死去した。

3月9日、ロンポンのノートルダム司祭館で彼の追悼式が行われた。[13]

ギーは生涯、パリ周辺、特にグルネー=シュル=マルヌフランス語版に礼拝堂フランス語版を建設し、マロル=アン=ブリフランス語版にも聖アルヌルフの信仰を広めることに尽力した。

家族

[編集]

ギーは初婚でアデライード・ド・ロシュフォールと結婚した[14] 。以下1男1女に恵まれた。

2人目の妻コルベイユ伯ブシャール2世未亡人エリザベート・ド・クレシーと再婚し、ギー1世はクレシー=アン=ブリーフランス語版領を得た。[17]エリザベートとの間に以下2男3女もうけた[18]

  • ユーグ(1147年没)、フランス王国セネシャル。クレシー=アン=ブリー(フランス語版)及びグルネー=シュル=マルヌ(フランス語版)卿。
  • ビオット(もしくはビオト)1076年からシャトー=ランドン(フランス語版)伯及びガティネ副伯フルクと結婚。1118年以降に死去。
  • リュシエンヌ(1094年 - 1137年)は、1104年に10歳程でフランス王太子時代のルイ6世と結婚し即位前に離婚し、1107年にギシャール3世・ド・ボージュと結婚。マナセス・ド・トゥルナン(フランス語版)によると 1140年頃、実兄ユーグと妹のベアトリス、そして夫の同意を得て、エグリ(フランス語版)とボワシー(フランス語版)の領地をロンポンのノートルダム修道院に寄進したとされる。[19]
  • ベアトリクス - 1118年クレシー女卿となった人物。1120年頃にマナセス・ド・トゥルナン(またはマナセス・ド・トゥルネーム)と結婚し、ギー、ユーグ、ジャンの3男をもうけ、ファヴィエールフランス語版のサン=トゥアン修道院を設立した。後にピエールフォン卿ドルー1世と再婚し、1144年にはクレシー領の通行税の分け前をヴュー・クレシーのサン・マルタン教会に寄進した。後夫との間に、以下4子をもうけた。
  • ピエールフォン卿(フランス語版)ドルー
  • クレシー女卿アード - シャティヨン卿ゴーシェ2世と結婚
  • マルグリット - ピエール・ド・ヴィック=シュル=エーヌと結婚イエールとロンポンの勅許状に生存記録を残している。[20]
  • ギー2世フランス語版(1115年に死去)、ロシュフォール伯位を継承

脚注と参考文献

[編集]
  1. ^ 『Histoire généalogique de la maison royale de la France et des grands officiers de la couronne』 III、666頁。  et vol. VI, p. 29 et 83.
  2. ^ Gustave Estournet, La Ferté-Alais, ses origines, ses noms, ses premiers seigneurs, SHACEH, 1944.
  3. ^ Maurice Prou (1861-1930), Recueil des chartes de l'abbaye de Saint-Benoît-sur-Loire, Paris, A. Picard et fils, 1900-1912, p.63, n°22 et 23.
  4. ^ Maurice Prou, Recueil des actes de Philippe 1er, roi de France, Paris, Imprimerie nationale, 1908, p.98.
  5. ^ Chartes de Saint-Benoît-sur-Loire, I, n°77.
  6. ^ Merlet, R.; Jusselin, M. (フランス語). Cartulaire de la léproserie du Grand-Beaulieu. p. 68 
  7. ^ Guérard, Cartulaire de Notre-Dame de Paris, I, 324.
  8. ^ Maurice Prou, Actes de Philippe Ier, n°127
  9. ^ Enquête de 1543 aux Archives nationales, R4 943, p.17, 40, 50.
  10. ^ Abbé Suger,Gesta Ludovici Grossi, éd. Lecoy de la Marche, p.25
  11. ^ [[#CITEREF|]], p. 1-149, p.25.
  12. ^ Cartulaire de l'abbaye de Saint-Martin de Pontoise, p.320, édité de Joseph Depoin.
  13. ^ Auguste Molinier (1831-1904), Obituaires de la Province de Sens, Paris, 1902, I, 525.
  14. ^ Actuellement Rochefort-en-Yvelines.
  15. ^ Cartulaire de Longpont, n° CCLVI, CCLXXII.
  16. ^ A. Moutié, Chevreuse, II, pp. 72-78.
  17. ^ Auguste Moutié, Chevreuse, 2 tomes en 1 volume in-8°, II, Rambouillet, Éd. Raynal, 1874-1876, p. 72, extrait des Mémoires et documents, publiés par la Société d'archéologie de Rambouillet, vol. II, et III.
  18. ^ エリザベート・ド・クレシーはフランス王ロベール2世の実姉エドヴィジュ(アヴォワーズ)の曾孫にあたり、外戚・女系を通じてカペー家の流れをくむ。
  19. ^ original perdu, copie de 1153, ms, lat 9968, n°292 - Marion, Cartulaire du prieuré de Longpont, p.236
  20. ^ Gustave Estournet, Bouchard II, pp. 29-32.

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • Abbé Suger(ラテン語)『Vita Ludovici Grossi Regis』1143年。 .
  • Estournet, Gustave (1944) (フランス語). La Ferté-Alais, ses origines, ses noms, ses premiers seigneurs (SHACEH ed.) 

関連記事

[編集]

外部リンク

[編集]