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クケイノス公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クケイノス公国の位置
ポロツクとその分領公国
P:ポロツク公国
V:ヴィテプスク公国 L:ルコームリ公国
D:ドルツク公国 O:ロゴジュスク公国
M:ミンスク公国 IZ:イジャスラヴリ公国
G:ゲルツィケ公国 K:クケイノス公国
周辺の主な公国・都市
S:スモレンスク公国 KI:キエフ公国
N:ノヴゴロド公国T:トゥーロフ公国
R:リガ VI:ヴィリニュス
(ポイントは首都の位置のみ。国境線は2014年現在)

クケイノス公国[注 1]ベラルーシ語: Кукенойскае княстваラトビア語: Terra Kukonoisドイツ語: Fürstentum Kokenhusen)は、1180年代から1208年にかけてクケノイス(現ラトビア・Koknese(lv))を首都として成立していた、ポロツク公国分領公国である。統治者としてはヴャチコ(ru)ロシア語: Вячкоラトビア語: Vetseke)という人物のみが知られているが、ヴャチコの出自に関しては複数の説がある[注 2]

歴史

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公国の歴史に関しては、マクデブルク出身のハインリヒ・フォン・レットラント(ru)(ラトビアのヘンリー)によって書かれた『リヴォニア年代記』が主たる史料となっている。それによれば、13世紀初頭にはクケイノス公国領をポロツク公国の封臣であるヴャチコが統治し、リヴォニア帯剣騎士団と戦ったことが記されている。ただしクケイノス公国領の正確な国境線や成立時期に関しては不明である。

1205年、クケイノス公国の一部はヴャチコによって、リトヴァ族(ru)(現リトアニア南東部から現ベラルーシ北西部(ネマン川ドニエプル川上流域)に居住していた東バルト系部族[1][2])からの庇護を交換条件として、リガ司教アルベルト(ru)に譲渡された。しかし1207年にヴャチコは捕縛され、リガへ送られたが、後にリガ司教によって解放されるということが起きている。

ポロツク公国からの資金援助は、ヴャチコが十字軍勢力と戦い続けるには充分ではなく、1208年にヴャチコはクケイノスに火をかけ、ルーシへと去った。クケイノス公国領はリヴォニア帯剣騎士団に制圧され、リガ司教領となった[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「クケイノス」はロシア語: Кукейносによる。他にКукенойс(クケノイス)、 Куконос(クコノス)とも。
  2. ^ リューリク朝(そのうちの家系に関しても諸説あり)出身説、リーヴ人出身説など。詳しくはru:Вячко#Происхождениеen:Vyachko#Identity of Vyachko/Vetsekeを参照されたし。

出典

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  1. ^ Археология СССР. Литовские племена
  2. ^ Литовско-русское государство // ブロックハウス・エフロン百科事典 — СПб., 1890—1907.
  3. ^ Генрих Латвийский. Хроника Ливонии. — С. 123—127.

参考文献

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  • Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. — Т. 1. — 784 с.
  • Генрих Латвийский Хроника Ливонии / Введение, перевод и комментарии С. А. Аннинского. — 2-е изд. — М.—Л.: Издательство Академии Наук СССР, 1938. — 185 с.