クジマ・ミーニン
クジマー・ミーニン(ロシア語: Кузьма́ Ми́нин、16世紀末 – 1616年)は、モスクワ・ロシアのニジニ・ノヴゴロドの商人、政治家。17世紀始め、ドミートリー・ポジャールスキー公とともに大動乱期のポーランドのロシア侵入に立ち向かい国民的英雄となった[1][2][3]。フルネームはクジマ・ミーニチ・ザハーリエフ・スホルーキー(Кузьма́ Ми́нич Заха́рьев Сухору́кий)を名乗り、しばしばコジマ・ミーニン、コジマー・ミーニン(Козьма́ Ми́нин)とも呼ばれる。
ミーニンはバラフナの生まれで、ニジニ・ノヴゴロドで繁盛した肉屋であった。17世紀初頭のロシア・ツァーリ国の政治的混乱(大動乱)に乗じてモスクワを占領したポーランド・リトアニア共和国軍に対する国民義勇軍が組織された。プロコピー・リアプノフらが1611年に組織した第一義勇軍は崩壊したが、1611年秋、ニジニ・ノヴゴロドの商人たちから信頼されていたミーニンは[4]、商人たちから集まった資金を託され、第二義勇軍(第二次国民軍、Второе народное ополчение)を創設し、リーダーとなった[5]。
義勇軍はドミートリー・ポジャールスキー公の指揮のもと1612年11月1日、ポーランド軍をモスクワ・クレムリンから追放した。ミーニンも指揮官として顕著な働きをした。翌1613年に召集された身分制議会ゼムスキー・ソボルで、ミハイル・ロマノフが新たにツァーリに選出され即位したが、ミーニンもミハイル・ロマノフのもとで貴族となり帝国議会の議員となった。
1616年に没し、ニジニ・ノヴゴロドの大聖堂に葬られた。ニジニ・ノヴゴロドのクレムリ前の中央広場はミーニン・ポジャールスキー広場と名付けられている。
脚注
[編集]- ^ Troubles, Time of britannica.com
- ^ Pozharski, Dmitri Mikhailovich, Prince", Columbia Encyclopedia
- ^ Kuzma Minin" at "History of Yaroslavl" by Yaroslavl State University
- ^ Chester S L Dunning, Russia's First Civil War: The Time of Troubles and the Founding of the Romanov Dynasty, p. 434 Penn State Press, 2001, ISBN 0-271-02074-1
- ^ The ancient heroes of the Russian people's militia", Kommersant-Den'gi, November 5, 2002 "
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “歴史映画「ミーニンとポジャルスキー」” (ロシア語). (1939年、モスフィルム) YouTube モスフィルム・チャンネル. 2024年4月21日閲覧。