クニグンデ・フォン・ルクセンブルク
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クニグンデ・フォン・ルクセンブルク Kunigunde von Luxemburg | |
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ローマ皇后 | |
聖クニグンデとローマ皇帝・聖ハインリヒ2世 | |
在位 | 1014年 - 1024年 |
出生 |
975年頃 |
死去 |
1040年3月3日 神聖ローマ帝国、カウフンゲン修道院 |
埋葬 | 神聖ローマ帝国、バンベルク大聖堂 |
結婚 | 999年 |
配偶者 | ローマ皇帝ハインリヒ2世 |
家名 | アルデンヌ=ルクセンブルク家 |
父親 | ルクセンブルク伯ジークフリート1世 |
母親 | ヘートヴィヒ・フォン・ノルトガウ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
聖クニグンデ | |
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列聖日 | 1200年3月29日 |
列聖決定者 | インノケンティウス3世 |
記念日 | 3月3日 |
守護対象 |
ルクセンブルク リトアニア ポーランド |
クニグンデ・フォン・ルクセンブルク(Kunigunde von Luxemburg, 975年頃 - 1040年3月3日)は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の皇后。カトリック教会の聖人。ルクセンブルク、リトアニア、ポーランドの守護聖人。聖名祝日は3月3日。
生涯
[編集]アルデンヌ家のルクセンブルク伯ジークフリート1世の娘。カール大帝の血を引く。999年にハインリヒと結婚し、贈り物としてバンベルクを与えられた[1]。政治に積極的に介入し、夫の最も親しい助言者であり、帝国の最高会議にも出席した。彼女は皇帝軍を指揮し、1012年にポーランド軍を打ち破っている。1014年には夫に同行してローマへ向かい、ローマ教皇ベネディクトゥス8世から戴冠されローマ皇后となった[2]。
1024年にハインリヒが死ぬと、選挙で選ばれた新皇帝コンラート2世の摂政を兄弟とともに務めた。
1025年には、自らが設立したベネディクト会派のカウフンゲン修道院へ引退した。1040年に亡くなり、バンベルク大聖堂内の夫の墓の隣に埋葬された。1200年3月29日、教皇インノケンティウス3世によって列聖された[3]。
夫ハインリヒとの間に子供が生まれなかったので、生涯処女であった、鋤刃の神判に臨んだという伝説が産まれる契機となった[4]。バンベルクの助祭アダルボルト『聖ハインリヒの生涯 補遺』によると、彼女は不倫のかどで告訴されたが、自ら、灼熱の鋤の刃12枚の上を歩く神判を望み、それを見事にクリアし、「主の加護によって悪魔に打ち勝った、と天の主を褒め称えた」[5]。なお、この逸話はグリム兄弟『ドイツ伝説集』482番「聖クニグント」においても記されている[6]。
脚注
[編集]- ^ 後にバンベルクにはハインリヒ2世により司教座が置かれた(瀬原、p. 127)。
- ^ 瀬原、p. 132
- ^ 瀬原、p. 141
- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München und Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1570-1571.
- ^ 山内進『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景――』 講談社 2000年(講談社現代新書1516)(ISBN 4-06-149516-X)52-55頁、引用54頁。
- ^ Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0) , S. 430-431.
参考文献
[編集]- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年