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クラウディオ・カニーヒア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラウディオ・カニーヒア
名前
本名 クラウディオ・パウル・カニーヒア
Claudio Paul Caniggia
愛称 Hijo del Viento (風の申し子),
El Pájaro (スズメ)
ラテン文字 Claudio CANIGGIA
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1967-01-09) 1967年1月9日(57歳)
出身地 エンデルソンスペイン語版
身長 172cm
体重 67kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1985-1988 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 53 (8)
1988-1989 イタリアの旗 エラス・ヴェローナ 21 (3)
1989-1992 イタリアの旗 アタランタ 85 (26)
1992-1994 イタリアの旗 ローマ 15 (4)
1994-1995 ポルトガルの旗 ベンフィカ 23 (8)
1995-1999 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 74 (32)
1999-2000 イタリアの旗 アタランタ 17 (1)
2000-2001 スコットランドの旗 ダンディー 21 (7)
2001-2003 スコットランドの旗 レンジャーズ 50 (12)
2003-2005 カタールの旗 カタールSC 15 (5)
2012 イングランドの旗 ウェンブリー 0 (0)
通算 360 (107)
代表歴
1987-2002 アルゼンチンの旗 アルゼンチン [1] 50 (16)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クラウディオ・パウル・カニーヒアスペイン語: Claudio Paul Caniggia, 1967年1月9日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手であり、元同国代表。ポジションはフォワード。アルゼンチン代表として、50試合に出場した[1]。カニーヒアはFIFAワールドカップに3度出場し、ライバルチームであるCAリーベル・プレートボカ・ジュニアーズの双方でプレーした。フィジカルの強さと高い技術力を兼ね備えたストライカーであり[2]、スピードの速さで知られていた[3][4][5]。サッカー選手としての活動を開始する以前には、地方の競技大会の100メートル走などにも参加していた[6]。彼は高い得点力に加えて[2]、アシストなどチャンスを創出する能力にも優れており、そのためしばしば司令塔センターフォワードなどのポジションでもプレーした[4]

経歴

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クラブ

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1985年リーベル・プレートのトップチームに昇格[6]。当時から瞬間的なスピードとドリブルの技術で知られており、1986年には国内リーグコパ・リベルタドーレスインターコンチネンタルカップコパ・インテラメリカーナ優勝を経験した[6]

1988年にイタリアのエラス・ヴェローナFCへ移籍し、1989年からはアタランタBCでプレー[6]

1992年ASローマに移籍し、コパ・イタリア準決勝ではACミランを破るゴールを決め[7]、決勝進出に貢献した。

1993年3月21日に行われたSSCナポリ戦後の尿検査の結果、コカインが検出され[8]、リーグの懲罰委員会により13か月の出場停止処分が科せられた[9][10]

処分明け後の1994年8月、ASローマと大手食品会社のパルマラットとの合意によりポルトガルのSLベンフィカへ移籍[11]UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95ではチームのベスト8進出に貢献した。

1995年1月、リーベル・プレートと伝統的にライバル関係にあるボカ・ジュニアーズへ移籍した[12]。代表のチームメイトであるマラドーナと共にプレーし、自身のキャリアの中でも充実した時間を過ごし[6]、1998年5月31日に行われたヒムナシア・イ・ティロ英語版戦を最後に退団した[13]

1999年8月、セリエBに所属していた古巣のアタランタBCと契約したが[13]、監督のジョヴァンニ・ヴァヴァッソリ英語版との意見の相違を理由に、1シーズン限りで退団[14]

2000年10月、スコットランドのダンディーFCと契約[15]。ダンディーでは好調なプレーを維持したことから、2001年1月に契約期間を2年半に延長した[16]

2001年5月、スコットランドのレンジャーズFCと契約[17]。レンジャーズではスコティッシュ・プレミアリーグ、2度のスコティッシュリーグカップ、 2度のスコティッシュカップ優勝に貢献した[18]。2001-02シーズンのスコティッシュリーグカップ決勝、エア・ユナイテッドFC英語版戦では2得点を挙げる活躍を見せた[19]

2003年にカタールのカタールSCでプレーをした後、2005年に現役を引退した[18]2012年6月、イングランド9部リーグのウェンブリーFC英語版で現役復帰を果たし、レイ・パーラーマーティン・キーオングレアム・ル・ソーブライアン・マクブライドらとともにプレー[20]。同年、再び現役を引退した。

代表

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アルゼンチン代表としては1987年6月7日に行われたイタリア代表との国際親善試合でデビュー[21]。同年6月から7月にかけて母国アルゼンチンで行われたコパ・アメリカ1987のグループリーグ第2戦、エクアドル代表戦で初得点を決めた[21]

1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは、ディエゴ・マラドーナと2トップを組み、決勝トーナメント1回戦のブラジル代表戦では、マラドーナのスルーパスからブラジルを破るゴールを挙げた[21]。自身は後のインタビューで「私のキャリアにおいて最も重要な得点だ。なぜなら長年に渡るライバルチームとの対戦で、終始劣勢に立たされた状況の中であげた得点だからだ」と語っている[6]。準決勝のイタリア代表戦でもヘディングシュートを決め決勝進出に貢献したが[21]、この試合で不用意なハンドを犯し、累積警告により決勝戦の出場は叶わなかった[6]。このハンドについては「私のキャリアにおいて最も挫折を味わった瞬間のひとつ」と語っている[6]

翌1991年にチリで開催されたコパ・アメリカ1991では、新たに代表入りをしたガブリエル・バティストゥータとのコンビで優勝に貢献[6]。自身はグループリーグの初戦のベネズエラ代表戦、第3戦のパラグアイ代表戦でそれぞれ1得点、合計2得点をあげた[22]

所属クラブでのコカイン服用の処分のためコパ・アメリカ1993の優勝メンバーには名を連ねることはできなかったが、処分明け後に代表に復帰すると、1994 FIFAワールドカップグループリーグ第2戦のナイジェリア代表戦で2得点をあげる活躍を見せた[6]。続くグループリーグ第3戦のブルガリア代表戦は怪我のため途中退場、決勝トーナメント1回戦のルーマニア代表戦では出場機会はなく、チームも敗退した[6]

アメリカ大会後、新たに監督に就任したダニエル・パサレラから選手達に課せられていた「長髪禁止令」について、これを受け入れる意向を示し[23]、1996年には3試合に出場した[21]。その一方で、同年7月7日に行われた1998 FIFAワールドカップ・南米予選ペルー代表戦を最後に出場機会を失ったが[21]本大会前にはクラブで好調を維持していたため、パサレラも代表複帰の可能性を口にしていたものの[24]、代表入りを逃した[10]

その後、6年間にわたり代表から遠ざかっていたが、2002年2月に監督のマルセロ・ビエルサの下で代表復帰を果たし、ウェールズ代表カメルーン代表との国際親善試合でプレーした[10]2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されたが怪我のため出場機会はなく[25]、グループリーグ第3戦のスウェーデン代表戦では試合中の判定を巡りベンチから抗議を行った際、主審のアリ・ブジサイムから退場処分を受けた[25]

代表歴

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試合数 

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出典[26]


アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
1987 6 2
1988 3 1
1989 7 2
1990 10 2
1991 6 3
1992 5 1
1993 2 1
1994 6 3
1995 0 0
1996 3 0
1997 0 0
1998 0 0
1999 0 0
2000 0 0
2001 0 0
2002 2 0
通算 50 16

脚注

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  1. ^ a b Appearances for Argentina National Team”. rsssf.com. 2017年12月16日閲覧。
  2. ^ a b Caniggia, Claudio Paul” (Italian). Treccani: Enciclopedia dello Sport. 3 June 2015閲覧。
  3. ^ IL CANIGGIA RISCOPERTO” (Italian). La Repubblica (11 May 1994). 3 June 2015閲覧。
  4. ^ a b Che fine ha fatto? Claudio Caniggia” (Italian). Calcio Mercato (31 January 2015). 3 June 2015閲覧。
  5. ^ Baggio Takes Great Strides Toward Soccer Greatness”. The Orlando Sentinel (15 June 1994). 24 September 2015閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k Argentina's 'Son of the Wind': Claudio Caniggia”. FIFA.com. 2017年12月16日閲覧。
  7. ^ 10. marzo 1993 Roma-Milan-Calcio.com
  8. ^ SPORTS PEOPLE: SOCCER; Italian Star Faces Ban After Failing Test”. The New York Times (1993年4月7日). 2017年12月16日閲覧。
  9. ^ “Darkness descends on the Stadium of Light”. The Scotsman. (22 June 1997) 
  10. ^ a b c Mit 35 kehrt Claudio Caniggia in die argentinische Nationalmannschaft zurück Der letzte Rockstar”. Berliner Zeitun (2002年4月17日). 2017年12月16日閲覧。
  11. ^ Caniggia jugará en el Benfica de Lisboa”. EL PAÍS (1994年8月7日). 2017年12月16日閲覧。
  12. ^ Caniggia jugará en el Benfica de Lisboa”. EL PAÍS (1994年8月7日). 2017年12月16日閲覧。
  13. ^ a b Caniggia jugará en Atalanta”. LA NACION (1999年8月13日). 2017年12月16日閲覧。
  14. ^ Tirando paredes”. LA NACION (2000年5月14日). 2017年12月16日閲覧。
  15. ^ El Dundee ficha a Caniggia”. LA NACION (2000年10月5日). 2017年12月16日閲覧。
  16. ^ Caniggia signs £1.5m deal to stay at Dundee”. telegraph (2001年1月4日). 2017年12月16日閲覧。
  17. ^ Caniggia agrees Rangers move”. Telegraph (2001年5月15日). 2017年12月16日閲覧。
  18. ^ a b Argentine great Caniggia retires”. BBC SPORT (2005年2月19日). 2017年12月16日閲覧。
  19. ^ Caniggia, la gran figura del Rangers”. LA NACION (2002年3月18日). 2017年12月16日閲覧。
  20. ^ Terry Venables' Wembley FC recruit former stars for FA Cup”. BBC SPORT (2012年6月21日). 2017年12月16日閲覧。
  21. ^ a b c d e f Caniggia vuela a los 35”. LA NACION (2002年2月7日). 2017年12月16日閲覧。
  22. ^ Copa América 1991”. rsssf.com. 2017年12月16日閲覧。
  23. ^ Caniggia se niega a obedecer a Pasarella”. EL PAÍS (1995年1月3日). 2017年12月16日閲覧。
  24. ^ ワールドサッカーグラフィック 1998年5月号 34ページ
  25. ^ a b Caniggia's World Cup ends in disgrace”. BBC SPORT (2002年6月12日). 2017年12月16日閲覧。
  26. ^ Caniggia, Claudio”. National-Football-Teams.com. 2017年12月16日閲覧。

外部リンク

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