クリア・スポット
『クリア・スポット』 | ||||
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キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
1972年秋 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス アミゴ・スタジオ | |||
ジャンル | ブルース・ロック | |||
時間 | ||||
レーベル | リプリーズ・レコード | |||
プロデュース | テッド・テンプルマン | |||
キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド アルバム 年表 | ||||
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『クリア・スポット』(Clear Spot)は、ドン・ヴァン・ヴリートが率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが1973年に発表した通算7作目に相当するアルバムである[注釈 1]。
解説
[編集]経緯
[編集]キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドはヴァン・ヴリートの31歳の誕生日にあたる1972年1月15日に、キャプテン・ビーフハート名義の前作『ザ・スポットライト・キッド』[注釈 2]の発表に合わせたツアーを開始した[1]。ツアーに先立ち、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(以下、MOI)のオリジナル・ベーシストのロイ・エストラーダ[注釈 3]が加入し、それまでベース・ギターを担当していたマーク・ボストンはギター担当となった[2]。彼等はヴァン・ヴリート、エストラーダ[注釈 4]、ボストン、ビル・ハークルロード(ギター)、エリオット・イングバー(ギター)、アート・トリップ(ドラムス)の6人編成となり、ギタリストが3人、元MOIのメンバー[注釈 5]が3人になった。
彼等はまず国内ツアーに臨み[2]、3月下旬からはヨーロッパ公演を始めた。ィギリス公演はロンドンのロイヤル・アルバート・ホール[3]をはじめとして殆んどの会場が満席となって、追加公演が開催されたほどの盛況だった[4]。4月4日から22日まで、リヴァプールのブルーコート・ギャラリーでヴァン・ヴリート初の個展がキャプテン・ビーフハート名義で開かれ、好評を得た[5][6]。ドイツではコンサートの他にテレビ・ショーのビート・クラブに出演し、フランスではパリのバタクラン劇場でのコンサートがテレビのポップ・ドウで放映された。4月下旬にはアメリカに戻って国内ツアーの後半をこなした後、5月には再びイギリスに渡りグレーター・マンチェスター州ウィガンで開かれたビッカーショー・フェスティバルに出演した[7]。ハークルロードは、自分達はアメリカよりもヨーロッパで熱狂的に迎えられたと回想している[8]。
ヴァン・ヴリートはクリーム誌に"Brown Star"という題名の新作アルバムを制作中であると語ったが、彼等が所属していたリプリーズ・レコードの親会社にあたるワーナー・ブラザーズが1972年5月に流布した情報では、新作の題名は"Kiss Me Where I Can't Wait"だった[9]。ワーナー・ブラザーズは自社に所属していたテッド・テンプルマン[注釈 6]を新作のプロデュ―サーにあてた。1972年の秋、ヴァン・ヴリート、エストラーダ、ボストン、ハークルロード、トリップの5人[注釈 7]は、ワーナー・ブラザーズが所有するアミゴ・スタジオで、これまでの作品制作に比べて遥かに多くの時間と予算を得て本作を制作した[10]。題名は収録曲の一つにちなんで『クリア・スポット』になった。
内容
[編集]本作はジョン・フレンチ(ドラムス)抜きで制作された初めてのアルバムだった。これまでスタジオではベーシストを務めてきたボストンが本作では初めてリズム・ギタリストを務めた。デビュー・アルバム『セイフ・アズ・ミルク』に続いてギタリストのラス・ティテルマンとパーカッショニストのミルト・ホランドが客演し[注釈 8]、女性コーラス・グループのザ・ブラックベリーズ[注釈 9]とホーン・セクションが参加した[11]。
1969年にフランク・ザッパがプロデュースした『トラウト・マスク・レプリカ』を発表した後、自らプロデューサーを務めてきたヴァン・ヴリートは、本作の制作中の1972年11月、ワーナー・ブラザーズの回報で「自分はテッド〈テンプルマン)のようなプロデューサーを7年間探してきた。彼もエンジニア[注釈 10]も素晴らしい。信じられない」と、テンプルマンに満足している主旨の発言をした[12]。しかしハークルロードは、ヴァン・ヴリートはテンプルマンが仕事を放り出さないために何らかの譲歩したに違いないと推測している[10]。彼はテンプルマンがヴァン・ヴリートと口論して「自分にこのアルバムを作ってもらいたいと思うなら口を挟まないことだ。自分は我慢しないからな」という主旨のことを言ったとしている[13]。発表された本作には、ホーン・アレンジメントは2曲がテンプルマンとヴァン・ヴリートで1曲がジェリー・ジュモンヴィユ[注釈 11]による、と記されたが、ヴァン・ヴリートは後年、テンプルマンとジュモンヴィユの関与を否定した[14]。
トリップは1995年に「彼〈テンプルマン)が来て、アルバムの内容はさらに売れ線になった。新曲の演奏も歌詞も簡潔になり、他の連中の音楽に似たものになった。半分は少し違った音楽だったが、残り半分はラジオでかかっているありふれたくずみたいだった」と本作を否定的に評した。
本作は1973年1月に発表された。当初は透明なレコードを透明なジャケットに入れる予定だった[注釈 12][12]が、予算の都合で断念した[15]。
収録曲
[編集]- LP
全作詞・作曲: Don Van Vliet。 | ||
# | タイトル | 時間 |
1. | 「Low Yo Yo Stuff」 | |
2. | 「Nowadays a Woman's Gotta Hit a Man」 | |
3. | 「Too Much Time」 | |
4. | 「Circumstances」 | |
5. | 「My Head Is My Only House Unless It Rains」 | |
6. | 「Sun Zoom Spark」 | |
合計時間: |
全作詞・作曲: Don Van Vliet。 | ||
# | タイトル | 時間 |
1. | 「Clear Spot」 | |
2. | 「Crazy Little Thing」 | |
3. | 「Long Neck Bottles」 | |
4. | 「Her Eyes Are a Blue Million Miles」 | |
5. | 「Big Eyed Beans from Venus」 | |
6. | 「Golden Birdies」 | |
合計時間: |
- CD
全作詞・作曲: Don Van Vliet。 | ||
# | タイトル | 時間 |
---|---|---|
1. | 「Low Yo Yo Stuff」 | |
2. | 「Nowadays a Woman's Gotta Hit a Man」 | |
3. | 「Too Much Time」 | |
4. | 「Circumstances」 | |
5. | 「My Head Is My Only House Unless It Rains」 | |
6. | 「Sun Zoom Spark」 | |
7. | 「Clear Spot」 | |
8. | 「Crazy Little Thing」 | |
9. | 「Long Neck Bottles」 | |
10. | 「Her Eyes Are a Blue Million Miles」 | |
11. | 「Big Eyed Beans from Venus」 | |
12. | 「Golden Birdies」 | |
合計時間: |
2022年現在、以下のCDが入手可能。
- "The Spotlight Kid/Clear Spot"[注釈 13][16]
- 『サン・ズーム・スパーク:1970・トゥ・1972』
参加ミュージシャン
[編集]- Captain Beefheart and The Magic Band
- Captain Beefheart (Don Van Vliet)- ボーカル、ハーモニカ
- Zoot Horn Rollo (Bill Harkleroad)- ソロ・ギター、スティ―ル・アッペンデイジ・ギター、グラス・フィンガー・アンド・マンドリン
- Rockette Morton (Mark Boston)- リズム・ギター、ベース・ギター(CD #12)
- Ed Marimba (Art Tripp)- ドラムス、タトゥ―、パーカッション
- Oréjon (Roy Estrada)- ベース・ギター
- 客演者
- Milt Holland - パーカッション
- Russ Titelman - ギター(CD #3)
- The Blackberries - バッキング・ボーカル(CD #3, 8)
- クレジットなし - ホーン(CD #2, 3, 9)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1960年代に発表した3作と1971年発表の前々作『ミラー・マン』はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド名義であった。『ミラー・マン』はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド時代の1967年の未発表音源集。1970年発表の『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』はキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド名義、1972年発表の前作『ザ・スポットライト・キッド』はキャプテン・ビーフハート名義であった。
- ^ 実質はキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドのアルバムであった。
- ^ MOIは1965年、エストラーダが在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツにフランク・ザッパが加入して誕生した。エストラーダは1968年にMOIを脱退して、先にMOIを解雇されたローウェル・ジョージとリトル・フィートを結成したが、2作のアルバム制作に参加したのちに脱退した。
- ^ ステージ名はOréjon。
- ^ エストラーダとイングバーは、デビュー・アルバム『フリーク・アウト!』の制作とその発表直後のツアーで共演。エストラーダとトリップは、アルバム『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』『アンクル・ミート』の制作とライブ活動で共演。
- ^ それまでにドゥービー・ブラザーズ、リトル・フィートやヴァン・モリソンの作品をプロデュースし、のちにヴァン・ヘイレンとの活動で名を馳せた。なお、彼がプロデュースしたリトル・フィートの作品にはエストラーダが参加していた。
- ^ イングバーはリハーサルに参加した後に離脱した。
- ^ ティテルマンは、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのデビュー当時のメンバーだったライ・クーダーの義兄にあたる。
- ^ 3人のメンバーのうち2人が、1974年にピンク・フロイドの'Shine On You Crazy Diamond'に客演したことで知られる。
- ^ Donn Landee。アミゴ・スタジオで働いていたエンジニア。
- ^ サクソフォーン奏者、編曲家、作曲家で、テンプルマンと共同でドゥービー・ブラザーズの作品の制作に参加したことがあった。
- ^ ドイツのロック・バンドのファウストが1971年に発表した同名のデビュー・アルバムに倣った。
- ^ 前作の『ザ・スポットライト・キッド』(キャプテン・ビーフハート名義)の全収録曲を含んだCD。
出典
[編集]- ^ Barnes (2011), p. 156.
- ^ a b Barnes (2011), p. 157.
- ^ Harkleroad & James (2000), pp. 77–78.
- ^ Barnes (2011), p. 159.
- ^ https://www.thebluecoat.org.uk/library/captain-beefheart-at-the-bluecoat
- ^ Barnes (2011), pp. 164–165.
- ^ Barnes (2011), pp. 160–161.
- ^ Harkleroad & James (2000), p. 78.
- ^ Barnes (2011), p. 166.
- ^ a b Harkleroad & James (2000), p. 80.
- ^ Barnes (2011), pp. 170–171.
- ^ a b Barnes (2011), p. 170.
- ^ Barnes (2011), p. 169.
- ^ Barnes (2011), pp. 169–170.
- ^ Harkleroad & James (2000), p. 81.
- ^ Barnes (2011), p. 381.
引用文献
[編集]- Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6
- French, John "Drumbo" (2010). Beefheart: Through the Eyes of Magic. London: Proper Music Publishing. ISBN 978-0-9561212-5-7
- Harkleroad, Bill; James, Billy (2000). Lunar Notes: Zoot Horn Rollo's Captain Beefheart Experience. London: Gonzo Multimedia Publishing. ISBN 978-1-908728-34-0