ジーニョ
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名前 | ||||||
本名 |
クリザン・セザル・ジ・オリヴェイラ・フィーリョ Crizam César de Oliveira Filho | |||||
ラテン文字 | ZINHO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1967年6月17日(57歳) | |||||
出身地 | ノヴァ・イグアス | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 左足[1] | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1986-1992 | CRフラメンゴ | 133 | (13) | |||
1993-1994 | SEパルメイラス | 44 | (11) | |||
1995-1997 | 横浜フリューゲルス | 83 | (21) | |||
1997-1999 | SEパルメイラス | 41 | (4) | |||
2000-2001 | グレミオFBPA | 51 | (10) | |||
2002 | SEパルメイラス | 16 | (2) | |||
2003 | クルゼイロEC | 31 | (3) | |||
2004-2005 | CRフラメンゴ | 64 | (8) | |||
2005 | ノヴァ・イグアスFC | 0 | (0) | |||
2005-2008 | マイアミFC | 49 | (7) | |||
通算 | 512 | (79) | ||||
代表歴 | ||||||
1989-1998 | ブラジル | 57 | (7) | |||
監督歴 | ||||||
2006-2009 | マイアミFC | |||||
2011 | ノヴァ・イグアスFC | |||||
2015-2016 | CRヴァスコ・ダ・ガマ(アシスタント) | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジーニョ (Zinho) ことクリザン・セザル・ジ・オリヴェイラ・フィーリョ (Crizam César de Oliveira Filho 1967年6月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ州ノヴァ・イグアス出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
クラブ経歴
[編集]ブラジル時代
[編集]1986年にフラメンゴでキャリアデビュー。フラメンゴではジーコ、ベベット、ジョルジーニョ、レオナルドらと共にプレーした。
1993年にパルメイラスに移籍。ブラジル全国選手権を獲得するなど、主要タイトルをほぼ総なめにした。
フリューゲルス時代
[編集]1995年、パルメイラスのチームメイトのセザール・サンパイオ、エバイールと共に日本の横浜フリューゲルスへ移籍し、ブラジルトリオ(パルメイラストリオとも)を形成。中盤のコンダクターとしてゲームメークを担い、初年度の年間順位こそ振るわなかったものの、在籍期間中に優勝を狙えるまでクラブを飛躍させた[2]。Jリーグ初ゴールは1995年4月29日の名古屋グランパス戦[3]、11月15日のセレッソ大阪戦では初の複数ゴールを決めた。
1996年、オタシリオ監督が就任し、ブラジルトリオが真価を発揮しだすとフリューゲルスは快進撃の勢いでリーグ中断前の15節を終えて首位で折り返す。ただ後半戦で、鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイトとの優勝争いの末、鹿島とは勝ち点3差、名古屋とは得失点差で競り負け、3位に終わった[4]。22節終了時には早くも二桁アシストを記録するなど、年間を通じて多くのアシストを決め[5]、この年のアシスト数はストイコビッチと並んでリーグ最多であった。また、このシーズン、週刊サッカーダイジェストの年間を通じての平均採点では、ジョルジーニョに次いで第2位にランクインするなど、年間を通じて高いレベルのプレーを披露した[6]。この年の5月18日、第15節鹿島戦で決めた直接FKがJリーグ30周年ベストゴールのフリーキック部門にノミネートされた[7]。
1997年、1stステージ、第16節清水エスパルス戦でゴールを決め4-3での勝利に貢献(このゴールがJリーグラストゴールとなった。)[8]、最終節まで鹿島アントラーズとの激しい優勝争いの末、2ポイント及ばず、フリューゲルスはstステージ2位に終わった[9]。3年間で通算83試合21得点の記録を残した[3]。1997年の1stステージ終了後、ブラジル代表としてフランスW杯出場を目指すためパルメイラスに複帰[10]。パルメイラスとの契約には、契約が切れる1999年12月にフリューゲルスが優先的に交渉出来る約定が含まれていた[10]。本人は「必ずフリューゲルスに復帰するという約束は出来ないが、出来れば戻ってきたい。」と話していた[10]。
ブラジル復帰後
[編集]パルメイラスでは1999年のリベルタドーレス杯の決勝でデポルティーボ・カリをPKの末破り優勝(2ndレグではPK戦で1人目のキッカーを務めたが、これを失敗した[11]。)、同年、パルメイラスの一員としてセザール・サンパイオらと共に日本で開催されたインターコンチネンタルカップ(通称トヨタカップ)に出場したが、試合はマンチェスター・ユナイテッドに0-1と敗れた[12]。
その後、ブラジル国内のクラブチームを渡り歩き、2006年にUSLのマイアミFCに移籍。選手としてプレーした後は、選手兼任監督を務め[2]、2008年に現役を引退した。
代表経歴
[編集]ブラジル代表としては55試合に出場し7得点を挙げた。1989年3月のエクアドル戦でフル代表デビューを果たした[1]。1994年のアメリカW杯では全7試合にスタメン出場し[13]、決勝のイタリア戦でも先発出場した[14]。大会を通じ、左サイドで本来のプレースタイルとは異なるプレーを求められたが、優勝に貢献した[15]。
パルメイラスでは好調を維持、1997年9月10日のエクアドル戦で代表に復帰、1998 CONCACAFゴールドカップでは 全5試合に先発出場したが[13]、同年のフランスW杯への出場は叶わなかった。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1986 | フラメンゴ | 23 | 3 | ||||||||
1987 | 19 | 2 | |||||||||
1988 | 25 | 4 | |||||||||
1989 | 17 | 0 | |||||||||
1990 | 18 | 1 | |||||||||
1991 | 9 | 0 | |||||||||
1992 | 25 | 3 | |||||||||
1993 | パルメイラス | 17 | 5 | ||||||||
1994 | 27 | 6 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 横浜F | - | J | 41 | 13 | - | 2 | 1 | 43 | 14 | |
1996 | 27 | 5 | 14 | 7 | 2 | 1 | 43 | 13 | |||
1997 | 10 | 15 | 3 | 6 | 1 | - | 21 | 4 | |||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | パルメイラス | ||||||||||
1998 | 21 | 1 | |||||||||
1999 | 20 | 3 | |||||||||
2000 | グレミオ | 24 | 3 | ||||||||
2001 | 20 | 4 | |||||||||
2002 | パルメイラス | 16 | 2 | ||||||||
2003 | クルゼイロ | 31 | 3 | ||||||||
2004 | フラメンゴ | 29 | 3 | ||||||||
2005 | ノヴァ・イグアス | ||||||||||
アメリカ | リーグ戦 | リーグ杯 | USオープン杯 | 期間通算 | |||||||
2006 | マイアミ | ||||||||||
2007 | |||||||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
日本 | J | 83 | 21 | 20 | 8 | 4 | 2 | 107 | 31 | ||
アメリカ | |||||||||||
総通算 |
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 55試合 7得点(1989年-1998年)[16]
ブラジル代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1989 | 4 | 0 |
1990 | 0 | 0 |
1991 | 0 | 0 |
1992 | 7 | 1 |
1993 | 14 | 0 |
1994 | 13 | 2 |
1995 | 10 | 3 |
1996 | 0 | 0 |
1997 | 2 | 1 |
1998 | 5 | 0 |
通算 | 55 | 7 |
脚注
[編集]- ^ a b サンスパーク カップ1995(日本代表xブラジル代表) 大会公式パンフレット p10-11
- ^ a b “元横浜Fジーニョの多才な“今” 日本での2年半に感謝「日々の小さな喜びを共有できた」”. www.football-zone 3 May 2020閲覧。
- ^ a b “ジーニョ”. data.j-league 3 May 2020閲覧。
- ^ “1996 Jリーグ 順位表”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 平成8年10月23日号 p.17
- ^ 週刊サッカーダイジェスト 1996/11/27日号 p.29
- ^ “J30 BEST AWARDS”. JLEAGUE. 2024年9月10日閲覧。
- ^ 「1997Jリーグ 1stステージ 第16節」『』/data.j-league。17 April 2020閲覧。
- ^ “1997 Jリーグ 1st 順位表”. /data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ a b c 週刊サッカーマガジン 平成9年(1997)8月13日号 p.21
- ^ “Copa Libertadores de América 1999” 17 April 2020閲覧。
- ^ “Manchester United 1 Palmeiras 0”. www.theguardian.com 17 April 2020閲覧。
- ^ a b “zinho”. www.transfermarkt 17 April 2020閲覧。
- ^ “Brazil-Italy Jul17 1994 Match sheet”. www.transfermarkt 17 April 2020閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 平成9年(1997)8月13日号 p.19
- ^ ジーニョ - National-Football-Teams.com
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ジーニョ - National-Football-Teams.com
- ジーニョ - Soccerway.com
- ジーニョ - FootballDatabase.eu
- ジーニョ - WorldFootball.net
- ジーニョ - Transfermarkt.comによる選手データ
- ジーニョ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ジーニョ - FIFA主催大会成績
- ジーニョ - UEFA
- ジーニョ - J.League Data Siteによる選手データ
- ジーニョ - playmakerstats.com
- ogol.com.br - Zinho