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セザール・サンパイオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セザール・サンパイオ
名前
本名 カルロス・セーザル・サンパイオ・カンポス
Carlos César Sampaio Campos
愛称 サンちゃん (Jリーグ時代)
ラテン文字 Cézar Sampaio
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1968-03-31) 1968年3月31日(56歳)
出身地 サンパウロ
身長 177cm
体重 74kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1991 ブラジルの旗 サントスFC 83 (2)
1991-1994 ブラジルの旗 SEパルメイラス 60 (5)
1995-1998 日本の旗 横浜フリューゲルス 116 (13)
1999-2000 ブラジルの旗 SEパルメイラス 22 (2)
2000-2001 スペインの旗 デポルティーボ・ラ・コルーニャ 10 (0)
2001 ブラジルの旗 SCコリンチャンス・パウリスタ 9 (0)
2002 日本の旗 柏レイソル 26 (3)
2003-2004 日本の旗 サンフレッチェ広島 55 (5)
2004 ブラジルの旗 サンパウロFC 25 (1)
通算 406 (31)
代表歴2
1993-1998 ブラジルの旗 ブラジル 45 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月6日現在。
2. 2007年10月6日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

カルロス・セーザル・サンパイオ・カンポス(Carlos Cézar Sampaio Campos、1968年3月31日 - )は、ブラジルサンパウロ出身の元サッカー選手[1]。ポジションはMF

なお、一般には「セザール・サンパイオ (Cézar Sampaio)」として知られているため表題もそれに倣うが、本人のインタビューによると「セーザル・サンパイオ」というのが本来の読み方に近く、日本でも一時は「セーザル」と表記していた。

人物

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ハードマークと空中戦に強さを発揮する古典的な守備的ミッドフィールダー[2][3]。1990年代ブラジルを代表するMFの一人であり、Jリーグ黎明期を代表するワールドクラスのボランチ[3]

クラブ経歴

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現役前半

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1986年17歳の時に、ブラジルのクラブチーム・サントスFCでプロキャリアをスタートする[1][2]。なお同年には三浦知良もサントスと契約しており、プロとして同期ということになる[4]。デビュー戦は1986年4月8日対CAジュベントス[1]。順調に試合出場を重ね、1990年11月にはチリ戦でブラジル代表デビュー[5]、同年にはボーラ・ジ・オーロを受賞している[4]

1991年、SEパルメイラスに移籍する。エジムンドリバウドロベルト・カルロスフレディ・リンコンジーニョエバイールらとプレー、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督時代の黄金期の一員として活躍し、93年・94年と2年連続でカンピオナート・ブラジレイロカンピオナート・パウリスタの2冠を達成した[4]。1993年ボーラ・ジ・オーロ受賞。1994年にはASローマからオファーがあったが、クラブ間の交渉がまとまらず、ローマに移籍出来なかった[6]

1995年、パルメイラス時代の同僚であるジーニョとエバイールとの3人で横浜フリューゲルスに移籍する[4]。横浜Fが3人を獲得するのに1,000万ドル以上を費やしたと言われている[3]。当初は日本特有のゾーンプレスに馴染めなかったが、ブラジル人アントニオ・カルロス・シルバオタシリオに監督が代わると本領発揮、堅実な守備に加えて攻撃力も備えるMFとして日本代表山口素弘と中盤の底を担った[7]。Jリーグデビューは1995年3月18日の浦和レッズ戦。1996年3月30日のサンフレッチェ広島戦でJリーグ初ゴールとなる決勝ゴールを決めた[8]。1996年はリーグ3位に入った。

1998年10月29日、横浜フリューゲルスがホームタウンを同じとする横浜マリノスとの合併(実態はクラブ消滅)を発表した。横浜フリューゲルス合併問題の際には、フリューゲルスイレブンとサポーターが合同で横浜駅前で『合併反対とフリューゲルス存続を求める』署名活動を行った。この活動にサンパイオ自身もチームメートと共に街頭で署名を呼びかけている。1999年元日の天皇杯優勝を最後にフリューゲルスが消滅した為、サンパイオは日本を離れ母国へ帰国することとなった。

現役後半

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1999年ブラジル帰国後、パルメイラスに復帰しコパ・リベルタドーレス1999制覇に貢献する[2]。日本に凱旋する形でトヨタカップジーニョらと共に出場したが、マンチェスター・ユナイテッドに0-1と敗れた。

2000年翌シーズンにはスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャへ移籍するも[2]、マウロ・シルバとドナトからレギュラーを奪えなかった。

2001年SCコリンチャンス・パウリスタに移籍後、2002年柏レイソルに入団する[7]。ただ柏ではチームにうまくハマらなかった[7]

2003年、当時Jリーグ ディビジョン2(J2)のサンフレッチェ広島へ移り、チームのJ1昇格に貢献した[7]。翌2004年8月一旦引退発表し広島からスタッフ入りを打診されていたが[7]、オファーが来たことからサンパウロFCでプレー、同年12月正式に現役引退した[1]

ブラジル代表経歴

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セレソンでは年代別代表として1987 FIFAワールドユース選手権に出場している。1990年10月にフル代表初召集を受けた[9]

1993年コパ・アメリカ1993でレギュラーとして活躍[10]1994 FIFAワールドカップメンバー決定前最後の代表戦となったアイスランド戦でも45分間プレーしたが、本大会メンバーには選出されなかった[9]

1995年8月、日本戦で代表初得点を記録した[11]コパ・アメリカ1995でもレギュラーとして準優勝[12]。1995年8月12日の韓国戦以降しばらく代表チームには召集されなかったが、ドゥンガがマリオ・ザガロ代表監督に召集を勧めたこともあり[13]、1997年4月30日のメキシコ戦で代表復帰、コパ・アメリカ1997ではマウロ・シルバドゥンガのバックアップとして優勝に貢献する[14]FIFAコンフェデレーションズカップ1997制覇にも貢献した[15]

1998 FIFAワールドカップではドゥンガとボランチのコンビを組み、大会の開幕戦となったスコットランド戦では前半4分に同大会最初のゴールをあげ、決勝トーナメント1回戦のチリ戦で2ゴールを挙げるなど、決勝進出の原動力となったが[4][7][16]、決勝ではフランスに0-3で敗戦した。この大会を最後に暫くセレソンからは遠ざかったが、2000年、ルシェンブルゴ監督により再び召集され、2002 FIFAワールドカップ予選では5試合で起用されたが、ルシェンブルゴが解任されて以降の召集は無かった。

引退後

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引退後は、スポーツ解説者として活躍する[17]

現役時代の1998年からスポーツマネージメント分野に関わり、リバウドとの共同でマネージメント会社「CSRフットボール・マーケティング」を設立し、以降規模の小さいクラブのマネージメント(GM)業務を行う[4][17]。まず、グアラチンゲタ・フチボウを強化し結果を残したが強化費用をかけすぎたため結果的には失敗した[18]

そこできちんと学ばなければならないと大学へ入り、マーケティング、マネージメント、ジャーナリズムを学ぶ[18]。その後はGEブラジウリオクラロFCモジミリンECでクラブ経営業務を行った[17]

2011年11月から2012年12月まで、古巣パルメイラスのGM(Gerente de futebol)として活躍した[17]コパ・リベルタドーレス2013出場権を確保するものの、カンピオナート・ブラジレイロでは低迷しセリエBに降格してしまう[1]

チッチ監督政権下のブラジル代表でアシスタントコーチを務めている。

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1986 サントス 10 0
1987 7 0
1988 15 0
1989 16 0
1990 18 1
1991 17 1
1992 パルメイラス 18 2
1993 20 2
1994 22 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 横浜F - J 32 0 - 2 1 34 1
1996 27 5 14 2 2 0 43 7
1997 8 29 6 9 1 2 0 40 7
1998 28 2 0 0 5 0 33 2
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1999 パルメイラス 15 2
2000 7 0
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
2000-01 ラ・コルーニャ プリメーラ 10 0
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2001 コリンチャンス 9 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2002 8 J1 26 3 6 0 0 0 32 3
2003 広島 6 J2 41 5 - 4 0 45 5
2004 J1 14 0 2 0 - 16 0
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2004 サンパウロ 25 1
通算 ブラジル
日本 J1 156 16 31 3 11 1 198 20
日本 J2 41 5 - 4 0 45 5
スペイン プリメーラ
総通算

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 45試合 6得点(1990年-2000年)[19]


ブラジル代表国際Aマッチ
出場得点
1990 1 0
1991 1 0
1992 4 0
1993 4 0
1994 2 0
1995 10 1
1996 0 0
1997 7 1
1998 9 4
1999 0 0
2000 7 0
通算 45 6

タイトル

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個人

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代表

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ブラジル代表

脚注

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  1. ^ a b c d e Cézar Sampaio”. terceirotempo.bol.uol.com. 2013年6月20日閲覧。
  2. ^ a b c d Cézar Sampaio”. ウニヴェルソ・オンライン. 2013年6月20日閲覧。
  3. ^ a b c さよならサンパイオ、Jリーグの偉大なる奉仕者”. ジェレミー・ウォーカー (2004年7月1日). 2013年6月20日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 田崎健太「国境なきフットボール」(第2金曜更新) : 第50回 日本でプレーしたブラジル人たちのその後<Vol.7>”. Sports Communications (2011年11月11日). 2013年6月20日閲覧。
  5. ^ サンスパーク カップ1995(日本代表xブラジル代表) 大会公式パンフレット p10-11
  6. ^ 「寝耳に水。悔し涙を流した」“横浜フリューゲルス消滅の舞台ウラ”元ブラジル代表MFサンパイオが激白「奇跡の優勝? 僕はそう思わない」”. Number (2023年7月30日). 2023年9月23日閲覧。
  7. ^ a b c d e f セザール・サンパイオ、引退。”. 紫熊倶楽部 (2004年7月11日). 2013年6月20日閲覧。
  8. ^ サンパイオ”. data.j-league.. 9 April 2020閲覧。
  9. ^ a b 「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」”. Number (2023年7月30日). 2023年9月23日閲覧。
  10. ^ Copa América 1993”. rsssf. 2013年6月20日閲覧。
  11. ^ 「寝耳に水。悔し涙を流した」“横浜フリューゲルス消滅の舞台ウラ”元ブラジル代表MFサンパイオが激白「奇跡の優勝? 僕はそう思わない」Jリーグ組は日本人選手を熟知していたから”. Number (2023年7月30日). 2023年9月23日閲覧。
  12. ^ Copa América 1995”. rsssf. 2013年6月20日閲覧。
  13. ^ 元ブラジル代表、セザール・サンパイオがサッカー日本代表にエール!「森保が監督を続投したのはいいことだ!」”. 週プレニュース (2023年3月31日). 2023年3月31日閲覧。
  14. ^ Copa América 1997”. rsssf. 2013年6月20日閲覧。
  15. ^ Intercontinental Cup for Nations 1997”. rsssf. 2013年6月20日閲覧。
  16. ^ World Cup 1998”. rsssf. 2013年6月20日閲覧。
  17. ^ a b c d César Sampaio é o novo gerente de futebol do Palmeiras”. Sports Communications (2011年11月4日). 2013年6月20日閲覧。
  18. ^ a b 田崎健太「国境なきフットボール」(第2金曜更新) : 第50回 日本でプレーしたブラジル人たちのその後<Vol.8>”. Sports Communications (2011年12月9日). 2013年6月20日閲覧。
  19. ^ セザール・サンパイオ - National-Football-Teams.com

関連情報

[編集]
  • 『SAMPAIO 勝者の証』セザール・サンパイオ著、2004年6月、JCベストブックス、ISBN 4990212703

関連項目

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外部リンク

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