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クリフトン・レジナルド・ウォートン (ジュニア)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウォートン

クリフトン・レジナルド・ウォートン(Clifton Reginald Wharton, Jr.、1926年9月13日 - 2024年11月16日)は、アメリカ合衆国経済学者実業家政治家

クリントン政権で国務副長官を務めた[1]

生い立ち

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マサチューセッツ州ボストンにて誕生。父親は外交官のクリフトン・レジナルド・ウォートン[2]ボストン・ラテン・スクールを卒業し、16歳でハーバード大学に入学。ハーバード在学中は全米学生協会の設立に参加し、事務局長を務めた[3]。続いてジョンズ・ホプキンス大学の高等国際問題研究大学院に進学し、黒人として初めて同大学で国際問題の修士号を取得。その後はシカゴ大学に進み、経済学の修士号および博士号を取得——同大学において黒人として初めて経済学博士号を取得。

慈善活動

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ウォートンが慈善活動を始めたのは、22歳の時であった。彼はネルソン・ロックフェラーと提携し、ラテンアメリカにて慈善活動を開始した。間もなく彼は居住地を東南アジアに移し、ロックフェラー財団理事長ジョン・D・ロックフェラー3世英語版の代理として1958年から1964まで活動を行った。

この間、タイ王国ベトナム民主共和国ラオスカンボジア王国でロックフェラー財団のプログラムを指揮し、またマラヤ大学にて経済学の教員を務めた。彼の教育をうけた学生や奨学生の多くは、地域のリーダーとなった。彼は東南アジアにおいて多年生作物の供給反応や自給自足農業に対する国際取引の経済性、緑の革命の影響について研究を行った。

彼は1966年にも大統領特使としてベトナムで活動し、続いて1969年にロックフェラー財団会長の特使としてラテンアメリカで活動した。

大学教育

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1970年、ウォートンはミシガン州立大学学長に選任され、アメリカの主要大学において最初の黒人学長となった。

ニューヨーク・タイムズ紙はトップ記事として掲載し、「黒ん坊の先導者——クリフトン・ウォートンが再度の栄達 / ミシガン州立大学で新学長選任、白人学生が多数を占める主要大学で初の黒人学長誕生」と報道した[4][5]デトロイト・ニュース紙もまた、主要記事として報道した[6]

ウォートンは1970年から1978年までミシガン州立大学で学長を務め、経済学の教授も兼任した。在任中はしばしば不穏な事態が発生し、1970年と1972年には学生による抗議運動が発生した。彼は学長として、教育水準を維持したままでの予算削減、経済的条件ないし教育的条件に不利な学生への教育融資、整骨医学大学院をはじめとする医学系大学院の統合、などの成果を挙げた。またウォートンは在任中、入学予定者に対して指針を提示することを目的とした「入試および学生に関する組織委員会」や、選抜された学生や若手教員に大学管理の経験を与える「学長フェロープログラム」を創設するなどの革新を行った。ウォートンが大学に対して行った長期的貢献としては、舞台芸術の新たな拠点を建設したことが挙げられる。この施設に対してウォートンは妻とともに最も献身的な支援を行った[7]。1982年、大学はウォートンとその妻の貢献を称え、「ウォートン舞台芸術センター」と命名した[8]

1978年、ウォートンは64のキャンパスを構えるニューヨーク州立大学機構の総長に就任した[9]。 彼は国内最大規模の大学機構において総長に就任した初の黒人として名が立てられた。彼は1987年まで9年間在任し、肥大化した大学管理体系の柔軟化、大学の研究能力の強化、そして大学の質的イメージの飛躍的な向上、といった成果を挙げた。

ニューヨーク州立大学理事長ドナルド・ブリンケンはウォートンの最大の恒久的業績として、独立委員会の創設と管理体系の柔軟化を挙げた[10]。ブリンケン理事はまた、「彼のユニークな考え方がなければ、州立大学の将来を検討する独立委員会は創設されず、委員会によって『(この大学には)国内で最も過剰な規制がかけられている』との問題が発見されることもなく、明るみに出ることすらなかっただろう」とウォートンの仕事を賞賛した[10]

企業経営

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1969年2月、ウォートンはエクイタブル生命理事に選任され、アメリカにおいて黒人として2人目の法人取締役となった。

その後、アメリカの他の複数の企業でも重役となった。

1982年、ウォートンはセオドア・ヘスバーグの後任としてロックフェラー財団理事長に就任した。彼はその後、17年にわたって理事会で活動した。1987年、彼はアメリカ最大の年金基金である米教職員保険年金連合会・大学退職株式基金の最高経営責任者に就任。アメリカの主要企業において最高経営責任者に就任した初の黒人となった[11][12][13]。1988年3月27日のニューヨーク・タイムズ紙では、挿絵としてトップページに登場し、溢れるほどの通貨を金庫で運びながら、ウォール街の裂れ目を綱渡りで歩く様子が描かれた[14]。この挿絵は、ウォートンがすべての年金資産を失うことなく、安全に目的地まで到達できるかどうかを喩えたものであった。

ウォートンは破綻しつつあった基金の再建を図り、結果的に成功を収めた。ペンシルベニア大学ウォートン・スクールマイケル・ユシーム教授は、企業のリーダーシップの模範例としてウォートンの手腕を強調し、「ウォートンは危機管理能力の評判に応えた。大昔に作られた年金基金の構造や仕組みを、劇的に変化させる改革に着手した——わずか9ヶ月の期間で」と言及した[15]。アメリカ教育協議会のロバート・アトウェル会長はウォートンの成果について、「瞬く間に、恐るべきスピードで、変革が成し遂げられた……私はこのような鮮烈な仕事を見たことがない」と表現した[16][17][18]

ウォートンは上記の他、フォード・モーター理事、タイム・ワーナー理事、テネコ理事、フェデレイティッド・デパートメント・ストアズ理事、公共放送サービス理事、ニューヨーク証券取引所理事、ハーコート・ジェネラル理事、ニューヨーク連邦準備銀行副総裁も務めた。

政治

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ウォートンは国務省の国際食糧農業開発委員会で委員長(1976年-1983年)[19]、国務省の安全保障経済援助委員会で共同委員長(1983年)[19]、大統領通商政策諮問委員会で委員(1991年-1992年)[19]を歴任。

ウォートンはビル・クリントン政権において、1993年1月27日から11月8日まで国務副長官を務めた。ウォートンが行った仕事としては、国務省の組織再編、対外援助予算の立案、国際開発庁の改革が挙げられる。ただし国務省内部のトラブルに巻き込まれたために、政策の立案には直接関与することはできなかった。しかしながらウォーレン・クリストファー国務長官はウォートンの政策面での仕事ぶりに対して失望の念を示し、ウォートンは辞任を余儀なくされた。複数の社説はウォートンについて、「ウォートンは外交政策に関与していなかった。ウォートンはクリントン政権における外交政策の失敗のスケープゴートとして選ばれた」と分析した[20][21][22][23][24][25][26]

人物像と評価

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ハーバード・クリムゾン紙はウォートンの経歴を紹介する際に、「彼は彼の世代の誰よりも多くの分野で、黒人の先駆者となった」と解説した[27]ブラック・カレッジアン誌もまたウォートンについて、「数々の分野における黒人の先駆者」と言及した。[28]。Black Issues in Higher Education誌は彼を「(黒人の)第一人者」と紹介し、オールバニ・タイムズ・ユニオン紙は「黒人の若者の次世代に対して、規範を提供した」と解説した[29]

ジョンズ・ホプキンス大学の教員紹介資料では、ウォートンについて「高等教育、企業経営、対外経済開発、慈善活動、その他の多くの分野で先陣に立ったが、過大な華々しさはなかった」と言及し、「寡黙な先駆者」と表現した[30]ニューヨーク・タイムズ紙はウォートンの経歴を紹介した際、「どちらかといえばアメリカのニュータイプであり、“黒人の上位層”に属する成員というよりはむしろ、上位層に属する“黒人の成員”である」と記述した[31]

ウォートンは多数の専門誌にて論文を発表した他、1969年に『自給自足農業と経済開発』を出版。1973年にはセオドア・ヘスバーグポール・A・ミラーとともに『生涯学習のパターン』を出版。

死去

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2024年11月16日、のためマンハッタンで死去した。98歳没[32]

出典

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  1. ^ Ifill, Gwen (1992年12月23日), THE TRANSITION; CHRISTOPHER AND ASPIN NAMED FOR STATE DEPT. AND PENTAGON, The New York Times, 2008年8月11日閲覧
  2. ^ Clifton R. Wharton: U.S. Postage Stamps Commemorate Distinguished American Diplomats”. U.S. Deptartment of State. 2011年1月5日閲覧。
  3. ^ Eugene G. Schwartz, Editor, American Students Organize: Founding the U.S. National Student Association After World War II, An Anthology and Sourcebook (American Council on Education/Praeger Series on Higher Education, Septempber 2006), pp. 112-118; pp. 188-149.
  4. ^ “Negro Economist Is Named Head of Michigan State U.; Clifton Wharton, Negro Economist is Named Head of Michigan State U.”. New York Times. (1959年10月18日). pp. p.1 
  5. ^ “Michigan State Chief, Clifton Reginald Wharton, Jr.”. New York Times. (1969年10月18日) 
  6. ^ Wolff, Joseph E. (1969年10月17日). “New MSU President: A Man Of Many Firsts”. Detroit News 
  7. ^ Clifton R. Wharton biography (Report). Michigan State University. 2009.
  8. ^ Clifton & Dolores Wharton”. The Wharton Center for Performing Arts. 2010年1月9日閲覧。
  9. ^ State University of New York (1985年), Sixty-four campuses: the State University of New York to 1985 (1 ed.), Albany, New York: Office of University Affairs and Development, OCLC 12556911
  10. ^ a b Gazin, Sharon (1986年10月17日). “Wharton is Hailed for Research Push, University Flexibility”. Albany Times Union 
  11. ^ Weiss, Samuel (1986年10月16日). “State U. Chief to Resign to Become Head of $50 Billion Pension Fund”. New York Times 
  12. ^ Potter, Joan (11 2002). “Who Was the First African-American to Head a Fortune 100 Company?”. African American Firsts: Famous Little-Known and Unsung Triumphs of Blacks (Dafina Books): p.12-13. 
  13. ^ B. Davis Schwartz Memorial Library. “AFRICAN-AMERICANS IN THE TWENTIETH CENTURY”. Long Island University. 2008年6月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年4月6日閲覧。 “Clifton R. Wharton was appointed Chairman and CEO of TIAA-CREF, the 19th largest U.S. Fortune 500 company (assets of $290 billion), thereby becoming the first Black chairman and CEO of a major U.S. corporation. He served until 1993, when he became Deputy Secretary of State under President Clinton. He was also the first African-American to be elected as chairman of the Rockefeller Foundation in 1982.”
  14. ^ Davis, L. J.. “Precious Cargo, The $60 billion challenge: Clifton Wharton struggles to preserve a pension fund”. New York Times. "The cartoon by Roth matched the story's summary lead: “Clifton Wharton took over the nation's largest pension fund as TIAA-CREF was besieged by angry policyholders. Can his bold strategy and persuasive style turn the tide?”" 
  15. ^ Useem, Michael (1 1998). 6. “Clifton Wharton Restructures TIAA-CREF”. The Leadership Moment: Nine True Stories of Triumph and Disaster and Their Lessons for Us All (New York: Three Rivers Press). 
  16. ^ Osborn, Michell (1991年10月2日). “The Wharton School, Clifton Wharton gives pension fund giant a lesson in turnarounds”. USA Today 
  17. ^ “Forcing an Old Pension Fund to Learn a Few New Tricks”. Business Week. (1988年7月18日) 
  18. ^ Rosenberg, Hilary (1989年4月). “The education of TIAA-CREF, Clif Wharton has pushed the giant teachers' pension plan into the modern era”. Institutional Investor 
  19. ^ a b c “Clifton R. Wharton, Jr.”. http://www.nndb.com/people/679/000121316/ 2011年1月9日閲覧。 
  20. ^ Sciolino, Elaine (1993年11月9日). “With Foreign Policies Under Fire, Top State Dept. Deputy is Ousted”. New York Times 
  21. ^ Rosenthal, A. M. (1993年12月3日). “On My Mind, The Wharton Case”. New York Times 
  22. ^ “Mr. Wharton as Scapegoat, ...If true, he’s taking the fall for Warren Christopher's disarray”. Albany Times Union. (1993年11月5日) 
  23. ^ Robbins, Carla Anne (1993年11月9日). “State Department's Clifton Wharton Resigns as the Agency's No. 2 Official”. Wall Street Journal 
  24. ^ “Christopher's Top Deputy Announces Resignation, Wharton Blames Leaks for Move”. Baltimore Sun. (1993年11月9日) 
  25. ^ Rowan, Carl (1993年11月19日). “Clinton fiddled while black diplomat burned”. Newark Star Ledger 
  26. ^ Stone, Chuck (1993年11月15日). “Clinton executes second political lynching”. Kalamazoo Gazette 
  27. ^ Yamanouchi, Kelly M. (1997年6月2日). “Serving America, Aiding Abroad: A Life in the Public Eye, In Profile 1947 Clifton R. Wharton Jr.”. Harvard Crimson 
  28. ^ Stinson, Sonya (2009年11月6日). “Trailblazers for the Next Generation, Contemporary African-American History Makers”. The Black Collegian. 2011年1月8日閲覧。
  29. ^ Frank, Stephen (1986年9月14日). “Clifton Wharton, Life at the Top, Reaping the Rewards of Pride, Prodigy”. Albany Times Union 
  30. ^ “Clifton R. Wharton Jr., SAIS '48, A Lifetime of Firsts”. Johns Hopkins Alumni News. (2001年9月) 
  31. ^ Davis, L. J. (1988年3月27日). “Clifton Wharton Struggles to Preserve a $60 Billion Pension Fund”. New York Times 
  32. ^ Clifton R. Wharton Jr., Who Broke Racial Barriers, Is Dead at 98”. The New York Times (2024年11月17日). 2024年11月18日閲覧。

外部リンク

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学職
先代
ウォルター・アダムズ
ミシガン州立大学学長
1970年 - 1978年
次代
エドガー・L・ハードン
先代
アーネスト・リロイ・ロイヤー
ニューヨーク州立大学総長
1978年1月25日 - 1987年1月31日
次代
ジェローム・バートラム・コミサー
(代行)
公職
先代
ローレンス・イーグルバーガー
アメリカ合衆国国務副長官
1993年1月27日 - 1993年11月8日
次代
ストローブ・タルボット