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クルムシ (バルラス部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クルムシモンゴル語: Qurmši、生没年不詳)とは、大元ウルスに仕えたバルラス部出身の千人隊長

元史』などの漢文史料では忽林失(hūlínshī)と表記される。

概要

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曾祖父は『元朝秘史』や『集史』にも言及されるチンギス・カンに仕えたバルラス部千人隊長ブルガン・カルジャで、クルムシはブルガンの子のフルダイ(許児台)の子のオンギラダイ(甕吉剌帯)の子にあたる[1]

クルムシは初め宿衛(ケシクテイ)として仕え、ナヤンの乱が起こるとバルラス千人隊を率いて皇太子テムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)率いる叛乱鎮圧軍に従軍した。ナヤンとの戦いでは雨のように降る矢をかいくぐって敵軍に突撃し、全身に33箇所もの矢傷を受けたが、皇太子テムル自らの指示によって鏃が取り出され一命を取り留めたという[2]。これによってクルムシの軍功は広く知れ渡り、クビライは南宋征服時に得た銀甕・金酒器を下賜している。その後もクルムシは北方のモンゴル高原に留まり、まずはクビライの庶子ココチュの指揮下に入った[3]

1293年(至元30年)に皇太子テムルが西方のカイドゥドゥアへの抑えとしてモンゴル高原に派遣されるとクルムシもその配下に入り、この時の功績により翰林承旨・万戸とされている。なお、クルムシを初めウズ・テムルアシャ・ブカオルジェイユワスらナヤンの乱討伐〜モンゴル高原出鎮時に皇太子テムルの指揮下にあった者たちはクビライ死後にテムルを擁立するため尽力しており、記録にはないもののクルムシもこれに協力していたのではないかと見られる[4]。更に、テムルの治世中にはカイシャン(後のクルク・カアン)とともに叛王オロスチャパルらとの戦いにも功績を残し、後に即位したクルク・カアンはモンゴル高原での軍功を踏まえて厚く遇するよう命じている。クルク・カアンの後に即位したブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)もクルムシを厚く遇するよう指示しているが、間もなくクルムシは亡くなった[5]

クルムシにはエル・ブリルという息子がおり、天暦の内乱に際しては大都派について活躍している[6]

脚注

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  1. ^ 村上1972,369頁
  2. ^ 吉野2008,24頁
  3. ^ 『元史』巻135列伝22忽林失伝,「忽林失初直宿衛。後以千戸従征乃顔、馳馬奮戈、衝撃敵営、矢下如雨、身被三十三創。成宗親督左右出其鏃、命医療之、以其功聞。世祖以克宋所得銀甕及金酒器等賜之、命領太府監。後以千戸従皇子闊闊出出征、還、留鎮軍中」
  4. ^ 吉野2009,42-44頁
  5. ^ 『元史』巻135列伝22忽林失伝,「後従成宗与海都・都瓦等戦有功、成宗嘉之、特命為翰林承旨、俄改万戸。与叛王斡羅思・察八児等戦、以功授栄禄大夫・司徒、賜銀印。武宗嘗曰『群臣中能為国宣力如忽林失者実鮮、其厚賚之』。於是遣使召見。未幾武宗崩、仁宗即位、念其旧勲、賞賚特厚」
  6. ^ 『元史』巻135列伝22忽林失伝,「子燕不倫、初奉興聖太后旨、充千戸。俄改充万戸、代其父職。尋罷、帰其父所受司徒印及万戸符於有司、仍直宿衛。致和元年秋八月、在上都、思武宗之恩、与同志合謀奉迎文宗。会同事者見執、乃率其属奔還大都。特賜龍衣一襲、命為通政院使。天暦元年九月、同丞相燕帖木児敗王禅等兵于紅橋、又戦于白浮、又戦于昌平東、又戦于石槽。帝嘉其功、拝栄禄大夫知枢密院事、以世祖常御金帯賜之」

参考文献

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  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 吉野正史「ナヤンの乱における元朝軍の陣容」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第4分冊 日本史学・東洋史学・西洋史学・考古学・文化人類学・アジア地域文化学』第54巻第4号、早稲田大学大学院文学研究科、2009年2月、21-37頁、CRID 1050282677435518592hdl:2065/32287ISSN 1341-7541 
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱 : 二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161巻、早稲田大学史学会、2009年9月、34-58頁、CRID 1050282677447165312hdl:2065/00053141ISSN 0386-9350 
  • 元史』巻135列伝22忽林失伝
  • 新元史』巻178列伝第75忽林失伝