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クレモナの戦い (紀元前200年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クレモナの戦い
戦争:ローマ・ガリア戦争
年月日紀元前200年
場所イタリアクレモナ
結果:共和政ローマ側の勝利
交戦勢力
共和政ローマ ガリア人
指導者・指揮官
ルキウス・フリウス・プルプレオ ハミルカル
戦力
歩兵 約18,000人
騎兵 約2,400人
40,000人
損害
2,000人 35,000人以上
ローマ・ガリア戦争

クレモナの戦い英語: Battle of Cremona)は、紀元前200年共和政ローマガリア人ケルト人)の間に勃発し、共和政ローマの勝利に終わった戦いのことである。

第二次ポエニ戦争BC219年 - BC201年)が終結した後、ガリア・キサルピナ地方に残っていたカルタゴハスドルバル・バルカが率いていた軍の残党のハミルカルが、地元のガリア人を率いてローマに対し反旗を翻した。ガリア人の軍勢はプラケンティアを襲撃・略奪し、クレモナを包囲した[1][2]。元老院の命を受けたルキウス・フリウス・プルプレオは、除隊していた5000人の軍団兵を率いアリミニウムの防衛に就き、ガイウス・アウレリウス率いる正規軍が到着後[1]は、この5000人はエトルリアの守りに就いた。この後、ハミルカル率いる35,000人のガリア人はローマ軍に対して戦いを挑んだ(クレモナの戦いの勃発)。ガリア人の軍勢はローマ軍の右翼を攻めるが、ローマ軍の両側面は歩兵により補強されており打ち破ることは出来なかった。逆に、ローマ軍はガリア軍勢の正面を突破し、35,000人のガリア兵は指揮官のハミルカルも含め殺されるか捕虜にされた。

参考文献

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  1. ^ a b Cornelius Nepos, Life of Hannibal, chapter 7
  2. ^ 田村慎雄, 矢内光一「古代ローマにおけるインターセックス観の変容」『横浜国立大学教育人間科学部紀要II(人文科学)』第11巻、横浜 : 横浜国立大学教育人間科学部、2009年2月、5-19頁、CRID 1050001202679368960hdl:10131/6520ISSN 1344-462X