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グッタ・フォン・エスターライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グッタ・フォン・エスターライヒ
Gutta von Österreich

出生 1302年
死去 1329年3月5日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
チロル伯領、ヴィンディッシュ英語版ケーニヒスフェルデン修道院英語版
1770年
ザンクト・ブラジエン大聖堂ドイツ語版
1806年
シュピタル・アム・ピュールン修道院ドイツ語版
1809年
ザンクト・パウル修道院英語版
配偶者 エッティンゲン伯ルートヴィヒ6世
家名 ハプスブルク家
父親 アルブレヒト1世
母親 エリーザベト・フォン・ケルンテン
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グッタ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Gutta von Österreich, 1302年 - 1329年3月5日)またはユッタ(Jutta)は、ローマ王アルブレヒト1世エリーザベト・フォン・ケルンテンの娘で、結婚によりエッティンゲン伯妃となった。

生涯

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グッタは1319年ウィーンでエッティンゲン伯ルートヴィヒ6世(1288年 - 1346年)と結婚した。1329年に死去し、ケーニヒスフェルデン修道院英語版に埋葬された。1770年、ザンクト・ブラジエン大聖堂ドイツ語版に改葬されたが、1806年にザンクト・ブラジエン修道院英語版が閉鎖された後、シュピタル・アム・ピュールン修道院ドイツ語版に移された。さらに1809年ケルンテンラヴァントタール英語版にあるザンクト・パウル修道院英語版に改葬された。改葬時の記録によると、グッタは赤毛で黄色と黒の縞に花柄の絹のドレスを着ていたという[1]

脚注

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  1. ^ Martin Gerbert, Franz Kreutter Feyerliche Uebersetzung der kayserlich-königlich- auch herzoglich-oesterreichischen höchsten Leichen aus ihren Grabstädten Basel und Königsfelden in der Schweiz nach dem fürstlichen Stift St. Blasien auf dem Schwarzwald den 14ten Wintermonats 1770., (Uffizin des Klosters St. Blasien), St. Blasien, 1770, Seite 16

参考文献

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  • Martin Gerbert, Franz Kreutter: Feyerliche Uebersetzung der kayserlich-königlich- auch herzoglich-oesterreichischen höchsten Leichen aus ihren Grabstädten Basel und Königsfelden in der Schweiz nach dem fürstlichen Stift St. Blasien auf dem Schwarzwald den 14ten Wintermonats 1770., (Uffizin des Klosters St. Blasien), St. Blasien, 1770, Seite 38.
  • Dr. Georg Grupp: Stammtafel des mediatisierten Hauses Oettingen 1895. Exemplar mit Anmerkungen und Ergänzungen im Fürstlich Oettingen-Wallerstein´schen Archiv Harburg.
夫エッティンゲン伯ルートヴィヒ6世