グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前32年の執政官)
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グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス Gn. Domitius L. f. Cn. n. Ahenobarbus[1] | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前31年 |
出身階級 | プレブス |
一族 | アヘノバルブス家 |
氏族 | ドミティウス氏族 |
官職 |
プラエフェクトゥス・クラッシス?(紀元前44年-42年) 艦隊司令官(紀元前42年-40年) プロコンスル(アントニウス配下、紀元前40年-34年) 執政官(紀元前32年) レガトゥス(アントニウス、紀元前31年) |
後継者 | ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前16年の執政官) |
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ラテン語: Gnaeus Domitius Ahenobarbus, ? - 紀元前31年)は、共和政ローマ末期の政務官。
家族
[編集]プレブス系ドミティウス氏族のアヘノバルブス家出身。アヘノバルブスは紀元前2世紀から頭角を現して代々執政官(コンスル)を務めていた。父はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス、子に父と同名のルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。
略歴
[編集]当初はガイウス・ユリウス・カエサルの独裁政治への態度に反発、対立するが、ファルサルスの戦いの後で恭順する。そして紀元前46年にローマへ帰還する。
カエサル暗殺後にはドミティウスはマルクス・ユニウス・ブルトゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスへと接近する。第二回三頭政治体勢に反発し、フィリッピの戦いで功績を挙げた。しかしマルクス・アントニウスをビティニアの総督としたガイウス・アッシニウス・ポッリオの仲介のもとでアントニウスと和睦した。
紀元前32年にはコンスルとなる。オクタウィアヌスとアントニウスが対立すると、最初アントニウス側につき東方へと向かうが、アントニウスがプトレマイオス朝のクレオパトラ7世と親しくなると離反、アクティウムの海戦直前にオクタウィアヌスの側につく。そして海戦が終わって直後に没した。
出典
[編集]参考文献
[編集]- ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス 著、国原吉之助 訳『ローマ皇帝伝 上下』岩波文庫、1986年。
- T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association