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グルジノ・イメレチア県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Грузино-Имеретинская губерния
グルジノ・イメレチア県
ロシア帝国の旗 ロシア帝国の県

 

 

1841年 - 1846年
 

グルジノ・イメレチア県の紋章

紋章

政庁所在地 チフリス
歴史
 - 設置 1841年1月1日
 - 廃止 1846年12月14日

グルジノ・イメレチア県(グルジノ・イメレチアけん、ロシア語: Грузино-Имеретинская губернияは、1841年から1846年までロシア帝国南カフカースに設置されていた

ニコライ1世による1840年4月10日公布、翌1841年1月1日発効の「ザカフカース地方の管理機関」令によって、以前からのグルジア県イメレティア州[1]及びアルメニア州を廃止・統合する形で、チフリスを県都として新設された[2]。県内にはチフリスロシア語版ゴリロシア語版テラフアゼルバイジャン語版、ベロカヌィ、クタイスロシア語版エリザヴェトポリロシア語版アレクサンドロポリロシア語版エリヴァニナヒチェヴァニアハルツィフ、グリアの11の郡が設置され、それらの下位にはさらに44の地区が設けられた[1]。県章には聖ゲオルギオスを中心として、アララト山頂に漂着したノアの箱舟黒海、豊かな土地を象徴する銀の農耕具などが描かれていた[3]

1844年4月にベロカヌィ郡は県の民政下から離れ、ジャロ・ベロカヌィ軍管区司令官の直轄地とされた[1]1846年12月14日採択の「ザカフカース分割の状況」令によって再度の行政区画再編が行われ[4]、グルジノ・イメレチア県はチフリス県ロシア語版およびクタイス県ロシア語版に分割された[5]

脚注

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  1. ^ a b c Алиева И. Х. “Из этнической истории азербайджанцев Борчалы до 1846 года” (PDF). КлиоКавказ. p. 8. 2016年7月25日閲覧。
  2. ^ Зурначян (2012) С. 70—71
  3. ^ დავით მეგრელიშვილი (2015年12月6日). “ოზურგეთის პირველი გერბი და მისი შექმნის ისტორია”. გურია ნიუსი. http://www.gurianews.com/_/left_wide/33871_128_ka/ozurgeTis_pirveli_gerbi_da_misi_Seqmnis_istoria.html 2016年7月25日閲覧。 [リンク切れ]
  4. ^ Зурначян (2012) С. 72
  5. ^ Цуциев А. А. (2006). Атлас этнополитической истории Кавказа (1774-2004). М.: Европа. p. 5.

参考文献

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