グレゴリア・マクシミリアーネ・フォン・エスターライヒ
グレゴリア・マクシミリアーネ・フォン・エスターライヒ Gregoria Maximiliane von Österreich | |
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グレゴリア・マクシミリアーネ、ヤーコプ・デ・モンテ(Jakob de Monte)画、1592年頃 | |
出生 |
1581年3月22日 神聖ローマ帝国、グラーツ |
死去 |
1597年9月20日(16歳没) 神聖ローマ帝国、グラーツ |
埋葬 | 神聖ローマ帝国、ゼッカウ修道院 |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | オーストリア大公カール2世 |
母親 | マリア・アンナ・フォン・バイエルン |
グレゴリア・マクシミリアーネ・フォン・エスターライヒ(Gregoria Maximiliane von Österreich, 1581年3月22日 - 1597年9月20日)は、オーストリア大公家の大公女(Erzherzogin)。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹。
生涯
[編集]内オーストリア大公カール(2世)とその妻でバイエルン公アルブレヒト5世の娘であるマリア・アンナの間の第8子、五女として生まれた。両親は実の叔父と姪の間柄だった。洗礼名は代父母を務めた教皇グレゴリウス13世と母方の叔母マクシミリアーナに因む[1]。信心深い性格で、兄弟姉妹の中では母大公妃に最も可愛がられた。グレゴリアとその姉妹たちには、ハプスブルク家の成員に特徴的な突出した下唇(Habsburger Unterlippe)の相貌が顕著に現れたことで知られる[2]。グレゴリアは成長するにつれて背中が醜く湾曲し、顔も痘痕面になった[3]。
1596年、アラゴン王国の海軍提督メンドーサ(Francisco de Mendoza)が使節としてグラーツの宮廷を訪れ、スペインのアストゥリアス公フェリペ(後のフェリペ3世)の花嫁を選ぶべくグレゴリアと2人の妹エレオノーレおよびマルガレーテの肖像画をスペインに持ち帰った。この後すぐに、グレゴリアはフェリペと婚約した[4]。王子は3人のうちマルガレーテの肖像画を気に入ったが、父王フェリペ2世が3人の候補の中で最年長のグレゴリアを娶るように命じたのである[5]。
1597年9月17日、結婚の仲人役がグラーツの宮廷に到着したが、グレゴリアはこのとき重病に陥っていた[6]。そして3日後に16歳の若さで死去し、ゼッカウ修道院(Abtei Seckau)内の教会堂に葬られた[7]。アストゥリアス公は1599年、グレゴリアの妹で意中の相手だったマルガレーテと結婚した。
脚注
[編集]- ^ Georg Haubenreich: Genealogia, 1598, S. 80 Digitalisat.
- ^ Deutsche Gesellschaft für Rassenhygiene: Archiv für Rassen- und Gesellschafts-Biologie, einschliesslich Rassen- und Gesellschafts-Hygiene, Band 8, S. 779 Digitalisat.
- ^ Brigitte Hamann: Die Habsburger: ein biographisches Lexikon, Piper, 1988, S. 278.
- ^ Societatea Academică Română: Acta historica, Band 3, Societatea Academică Română, 1959, S. 162.
- ^ Karl Acham: Kunst und Geisteswissenschaften aus Graz, Band 2, Böhlau Verlag Wien, 2009, S. 88.
- ^ Alexander Randa: Pro Republica Christiana, Band 3, Rumänische Akademische Gesellschaft, 1964, S. 166.
- ^ Quirin Ritter von Leitner: Die Schatzkammer des Allerhöchsten kaiserhauses, Druck von A. Holzhausen, 1882, S. 145.
参考文献
[編集]- Friedrich Emanuel von Hurter: Bild einer christlichen Fürstin Maria Erzherzogin zu Österreich, Herzogin von Bayern, Hurter, 1860, S. 171 f.