グレゴリオ・デ・フェラーリ
グレゴリオ・デ・フェラーリ Gregorio De Ferrari | |
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ジェノヴァの赤の宮殿のデ・フェラーリによる装飾画 | |
生誕 |
1647年4月14日 ポルト・マウリツィオ |
死没 |
1726年 ジェノヴァ |
グレゴリオ・デ・フェラーリ(Gregorio De Ferrari、1647年4月14日 - 1726年)はイタリアの画家である。バロック期のジェノヴァ派の一人である。
略歴
[編集]現在はリグーリア州のインペリアに統合された ポルト・マウリツィオ(Porto Maurizio)で生まれた。少年時代に法律を学ぶためにジェノヴァに移ったが、美術に転じ、1664年から1669年の間、ドメニコ・フィアセッラ(Domenico Fiasella: 1589-1669)の工房で学び、フィアセッラがモントッジョの教会(Chiesa di San Giovanni Decollato)の祭壇画を描いた時、助手として働いた。1669年から1673年の間、パルマに修行の旅に出て、コレッジョの描いた壁画や絵画を模写して修行した[1]。
ジェノヴァに戻りドメニコ・ピオラ(Domenico Piola、1627-1703)のもとで働き、ピオラの娘と結婚した。ピオラとデ・フェラーリはピエトロ・ダ・コルトーナやコレッジョ、ジョヴァンニ・ベネデット・カスティリオーネ(通称、イル・グレケット)に影響を受けたスタイルで装飾画を描いた。ピオラとジェノヴァのコンソラツィオーネ教会(Chiesa della Consolazione)などの装飾画などを描いた。
1694年からジェノヴァの船主の邸(Palazzo Gio Battista Centurione)の装飾画を描き、翌年はサヴォイア公、ヴィットーリオ・アメデーオ2世のトリノの宮殿の装飾画を描き、マルセイユでフランスの提督のために働いた。
1688年にジェノヴァに戻り、赤の宮殿の装飾画を描いた一人になった[2]。宗教画や神話に題材をとった作品を描き、多くの教会などの装飾画を描いた。
息子の一人、ロレンツィオ・デ・フェラーリ(Lorenzo De Ferrari: 1680-1744)も画家になった。
作品
[編集]-
聖母被昇天(c.1700)
プラド美術館 蔵 -
エジプトへの逃避途上の休息(c.1675)
オルレアン美術館 蔵 -
ヘーラクレースとアンタイオス
Palazzo Cattaneo-Adorno -
Juno and Argus(1685/1695)
ルーブル美術館 蔵
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Allegory of the Concord among the Arts
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ロトと娘たち
ブラジル国立美術館 蔵 -
Palazzo Gio Battista Centurioneの装飾画
脚注
[編集]参考文献
[編集]- R. Wittkower, Art and Architecture in Italy, 1600-1750, Pelican History of Art (Penguin Books Ltd), 1980, pp. 355-356.
- Gregorio De Ferrari: da E. Gavazza, F. Lamera, L. Magnani, La pittura a Genova e in Liguria. Il secondo Seicento, Genova CARIGE, 1990