グレプ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)
グレプ・スヴャトスラヴィチ Глеб Святославич | |
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コロムナ公 カネフ公 ペレヤスラヴリ公 スタロドゥーブ公 ノヴゴロド・セヴェルスキー公 チェルニゴフ公 | |
在位 |
コロムナ公:1179年 カネフ公:1182年 - 1190年 ペレヤスラヴリ公:1190年 - 1194年 スタロドゥーブ公:1202年 - 1204年 ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1204年 - 1212年頃 チェルニゴフ公:1215年 - 1217年 |
死去 |
1219年以前 |
配偶者 | アナスタシヤ |
子女 |
ムスチスラフ エヴフィミヤ 娘(スタロドゥーブ公ウラジーミル妃) アントニー ミハイル アニシム ロマン イヴァン |
家名 | リューリク家 |
父親 | チェルニゴフ公スヴャトスラフ |
母親 | マリヤ・ヴァシリコヴナ |
グレプ・スヴャトスラヴィチ(ロシア語: Глеб Святославич、? - 1219年以前)は、チェルニゴフ公スヴャトスラフとその妻(ポロツク公ヴァシリコの娘。名はおそらくマリヤ。)との間の子である。兄にはキエフ大公となったフセヴォロドがいる。コロムナ公:1179年、カネフ公:1182年 - 1190年、ペレヤスラヴリ公:1190年 - 1194年、スタロドゥーブ公:1202年 - 1204年、ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1204年 - 1212年頃、チェルニゴフ公:1215年 - 1217年。聖名パホミー。
生涯
[編集]グレプは1179年にコロムナの統治者として史料上に名が見られる。しかし1180年に、ウラジーミル大公フセヴォロドがリャザン公国の公位をめぐる争いに介入し、グレプの領有するコロムナを占領した。父のスヴャトスラフがキエフ大公位にあった(スヴャトスラフ3世)1180年から1194年にかけては、グレプはポロシエ地方のカネフを領有し、ポロヴェツ族との戦いに参加した。1187年にガーリチ公ヤロスラフが死亡すると、グレプをガーリチ公とする案が立てられたが実現しなかった。1215年に兄のチェルニゴフ公フセヴォロド(かつてのキエフ大公フセヴォロド4世。上記のウラジーミル大公フセヴォロドとは別人)が死ぬと、後を継いでチェルニゴフ公国を統治した。正確なグレプの没年は不明であるが、おそらく1216年から1219年の間に死亡したとみられる[1]。1219年には兄弟のムスチスラフがチェルニゴフ公として言及されている[2]。
妻子
[編集]妻はリューリク(キエフ大公リューリク2世)の娘のアナスタシヤ(1182年頃結婚)。子には以下の人物がいる。
- ムスチスラフ - チェルニゴフ公:1238年
- エヴフィミヤ - 1194年、ビザンツ皇帝アレクシオス4世アンゲロス(在位:1203年 - 1204年)と結婚。
- 娘 - 1215年、スタロドゥーブ公ウラジーミルと結婚。
- アントニー
- ミハイル
- アニシム
- ロマン
- イヴァン
出典
[編集]参考文献
[編集]- Войтович Л. КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
- Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику — СПб.: Типография братьев Пантелеевых, 1892.
- Коган В.М., Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — СПб.: «Паритет», 2004.
- Экземплярский А. В. Черниговские, князья // Русский биографический словарь : в 25-ти томах. — СПб.—М., 1896—1918.