グロスター (軽巡洋艦・2代)
艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1936年9月22日 |
進水 | 1937年10月19日 |
就役 | 1939年1月31日 |
退役 | |
その後 | 1941年5月22日に戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 基準 9,400トン、満載 11,650トン |
全長 | 588 ft |
全幅 | 62 ft 4 in |
吃水 | 20 ft 7 in |
機関 | 海軍式三胴型重油専焼缶4基+パーソンズ式オール・ギヤードタービン4基4軸推進、82,000 shp |
最大速力 | 32ノット(59 km/h) |
乗員 | 800名 |
兵装 | Mk XXIII 15.2cm(50口径)三連装砲4基 Mk XVII 10,2cm(45口径)高角砲連装4基 3ポンド砲単装2基 2ポンド4連装ポムポム砲2基 12.7mm四連装機銃2基 53.3cm水上魚雷発射管三連装2基 |
装甲 | 舷側:114mm(VP部、水線部のみ) 甲板:38mm(VP部のみ) 弾火薬庫:25〜114mm 主砲塔:102mm(前盾)、51mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋) |
航空兵装 | 水上機3基、カタパルト1基 |
グロスター (HMS Gloucester, C62) は、イギリス海軍のタウン級軽巡洋艦。艦名はイングランド南部の都市グロスターに因む。「The Fighting G.」の愛称で呼ばれた。
艦歴
[編集]「グロスター」はプリマスのデヴォンポート造船所で1936年9月22日に起工した。1937年10月19日に進水し、1939年1月31日に就役した。
1939年9月、「グロスター」は第4巡洋艦戦隊の旗艦として東インド諸島で活動し、その年の残りはインド洋の哨戒に費やした。12月に南アフリカのサイモンズタウンに移動し活動した。
1940年5月に地中海に移動し、多くの戦闘を経験することとなる。6月にはMA3作戦で出撃中に他の巡洋艦4隻と共にイタリア駆逐艦3隻と交戦した(エスペロ船団の戦い)。7月7日にアレクサンドリアを出航し、翌8日にイタリア軍の空襲を受ける。艦橋に攻撃を受け多くが死傷し、その中には艦長のF・R・ガーサイド大佐も含まれた。その後1940年の後半は地中海東部およびエーゲ海で活動した。
8月15日、魚雷を搭載したイタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.79が5機アレクサンドリアに来襲し、その内2機が「グロスター」を目標に魚雷を投下したが魚雷は泥に埋まったため「グロスター」に被害は生じなかった[1]。
1941年1月、MC4作戦に参加。11日、軽巡洋艦「サウサンプトン」と共に航行中であった時にドイツ軍機による攻撃を受けた。この攻撃で「サウサンプトン」が失われた。また、「グロスター」にも爆弾1発が命中したがこれは不発であった。
3月にはマタパン岬沖海戦に参加し、4月には北アフリカ沿岸に対する何回かの砲撃に参加した。その後もう一度爆弾の直撃を受け小さな損害を受けた。
「グロスター」はクレタ島へのドイツ軍輸送部隊に対する艦隊の1隻としていくつかの戦果を挙げた。1941年5月22日、クレタ島北方14マイルのキセラ海峡においてドイツ軍のユンカース Ju 87急降下爆撃機の攻撃を受け、少なくとも4発の直撃弾と3発の至近弾を受け沈没した。723名が死亡し、82名が救助された。「グロスター」の沈没はイギリス史上最悪の戦時災害の1つとして考えられる。
「グロスター」の最後はBBCによって特集番組が制作された。これによれば「グロスター」の急送は単艦で燃料も対空砲の弾薬も僅かなまま(弾薬の残量は2割未満だったという)行われ、「重大な誤り」だったとされる。更に、日没後生存者の救助を試みなかったことは「通常の海軍慣例に反する」ものであった。生存者は「海軍の伝統では船が沈んだ場合、闇に乗じて生存者を救助するための船が派遣される。それは行われず、なぜなのかも分からない。我々はドイツ軍によって救助された。」と語った。
「グロスター」の沈没に関する別の調査はBBCのものとは異なる。これによれば「グロスター」と「フィジー」の両艦が弾薬の僅かなまま駆逐艦「グレイハウンド」の生存者を救助するため急送され、猛烈な空襲のため弾薬を消耗した。2隻は後退の許可を得たものの、「グロスター」が沈められたのは後退途中のことであった。「フィジー」もその日の内に沈められた。
「グロスター」の沈没現場は軍事遺跡法によって保護されている。
脚注
[編集]- ^ Marco Mattioli, Savoia-Marchetti S.79 Sparviero Torpedo-Bomber Units, Osprey Publishing, 2014, pp.7,9