コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ケルマーン・セルジューク朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ケルマーン・セルジューク朝ペルシア語 : سلجوقيان كرمان Saljūqiyān-i Kirmān)は、セルジューク朝の地方政権のひとつで、現在のイランの東南部にあたるケルマーン地方を支配したイスラム王朝1048年 - 1187年)。

カーヴルト・ベグの時代

[編集]

ケルマーンのセルジューク朝は、大セルジューク朝の初代スルタントゥグリル・ベグの兄弟チャグリー・ベグの長男カーヴルト・ベグによって建設された。カーヴルトは、トゥグリルが王朝創建の地ホラーサーン地方(イラン北東部)から西進してイラクに入っていった時代に、配下の軍を率いてホラーサーンから南のケルマーンへの侵攻を担当し、1051年までにケルマーンの全域を支配下に置いた。カーヴルトはこの地方に勢力を扶植し、さらに西のファールス地方にも進出するとともに、ペルシア湾の要衝ホルムズ海峡を抑え、対岸のオマーンまで窺った。

1063年に伯父のスルタン、トゥグリル・ベグが死ぬと、カーヴルトは息子を残さなかったスルタンの後継者になることを望んだが、結局ペルシア人官僚の支持を受けた弟のアルプ・アルスラーンが大セルジューク朝の第2代スルタンに即位した。これに対してカーヴルトは反抗の構えを見せて自らケルマーンのスルタンを称し、やがて公然と弟スルタンに対して反乱を起こした。ケルマーン・セルジューク朝はスルタンとその宰相ニザームルムルクの攻撃を受けて苦しい戦いを強いられたが、アルプ・アルスラーンの軍中にもカーヴルトに心を寄せる者も多く、ついにスルタンにケルマーンへの侵攻を断念させるに至った。

1072年、アルプ・アルスラーンが死ぬと、その長男マリク・シャーが即位を宣言したため、カーヴルトは再びスルタン位を狙って兵を起こしたが、翌1073年に敗れて捕らえられ、殺害された。カーヴルトの死後もケルマーンにはケルマーン・シャー、スルターン・シャー、フサインらカーヴルトの諸子が残されており、大セルジューク朝は彼らまでも討滅することはなかった。以後のケルマーン・セルジューク朝の支配者は単にアミール(総督)を称するに留まり、大セルジューク朝のスルタンの権威のもと分枝地方政権として存続することとなった。

ケルマーン・セルジューク朝の最盛期

[編集]

ケルマーン・セルジューク朝はカーヴルトの晩年にファールスから全く勢力を後退させていたが、1084年に即位したトゥーラーン・シャーのもとでその奪回を進め、再び勢力を拡大し始める。1094年にはマリク・シャーの寡婦で幼い我が子マフムードをスルタンとして擁立したテルケン・ハトゥンが、マリク・シャー没(1092年)後の後継者争いを有利にするためにファールスの奪還を目指して軍を派遣してきたが、トゥーラーン・シャーはこれを破って支配を確実なものとした。

トゥーラーン・シャーの子で、イスマーイール派に傾倒したため支配下のスンナ派の人々の反感を買って殺害されたイーラーン・シャーの後、1101年に即位したケルマーン・シャーの子アルスラーン・シャーの時代にケルマーン・セルジューク朝は最盛期を迎えた。アルスラーン・シャーは再び対岸のオマーンまで支配下に収めることに成功し、中央アジア・イランとペルシア湾を経てアラビア半島アラビア海と接続する位置にあたるケルマーンは交易の中継地として繁栄を極めた。また、大セルジューク朝の後継者争いに勝ち残って1105年にイラクでスルタンとなっていたムハンマド・タパルと結び、その娘を娶ってケルマーンの支配者として大セルジューク朝に自らの支配権を認めさせ、セルジューク朝諸政権間の安定を実現した。1118年にムハンマド・タパルが死んだ後はその弟でホラーサーンの支配者としてスルタンに即位したサンジャルの権威を承認する一方、ムハンマド・タパルの子孫であるイラク・セルジューク朝とも良好な関係を保った。

長きに渡ったアルスラーン・シャーの治世は彼の諸子の間での後継者争いを激化させ、1042年には諸子のひとりムハンマドによってアルスラーン・シャーは退位させられた。アルスラーン・シャーは3年後に幽閉先で亡くなったが、幽閉地の外ではムハンマドとその兄弟セルジューク・シャーの間で内紛が起こった。しかし、この混乱によってもケルマーン・セルジューク朝の勢力はすぐに揺らぐことは無く、統一は保たれていた。

ケルマーン・セルジューク朝の崩壊

[編集]

セルジューク・シャーとの内紛に勝利したムハンマドの後、その子トゥグリル・シャーは兄弟や叔父を倒してケルマーンの統一と保ったが、1169年にトゥグリル・シャーが死ぬと内訌が再燃した。ケルマーン・セルジューク朝でも大セルジューク朝のように各地に分封される王子たちに付属されたアタベク(王傅)の将軍たちの力が強まっており、ケルマーン・セルジューク朝は急速に崩壊に向かっていった理由もアタベクたちの間での内紛によるところは大きい。

これ以降、セルジューク家の王子たち、君主たちから政治の実力は失われ、政権はその時々に権勢を振るったアタベクによって左右された。また、内紛の影響によって、ケルマーン・セルジューク朝の繁栄を支えたケルマーンの通商活動も衰退に向かっていた。

このような混乱の中で、ホラーサーンにおいてサンジャルのホラーサン・セルジューク朝勢力を滅亡においやった遊牧民トゥルクマーンオグズ)が南下し、ケルマーンの諸都市は次第にトゥルクマーンに奪われていった。ケルマーンにおけるセルジューク朝最後の君主、ムハンマド・シャー(2世)は1187年にトゥルクマーンに敗れて東のゴール朝のもとに亡命し、ケルマーン・セルジューク朝は滅びた。

ケルマーン・セルジューク朝の歴代君主

[編集]

系図

[編集]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カーヴルト・ベグ1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルプ・アルスラーン
大セルジューク朝2代スルターン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ケルマーン・シャー2
 
スルターン・シャー3
 
フサイン・ウマル4
 
トゥーラーン・シャー1世5
 
大セルジューク朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルスラーン・シャー1世7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イーラーン・シャー6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド1世8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥグリル・シャー9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バフラーム・シャー10
 
アルスラーン・シャー2世11
 
トゥーラーン・シャー2世12
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド2世13