ケルン選帝侯領
- ケルン大司教選帝侯領
- Erzstift und Kurfürstentum Köln
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→(国旗) (国章)
1560年のケルン選帝侯領-
公用語 ドイツ語 国教 カトリック 首都 ケルン(953年 - 1475年)
ボン(1597年 - 1803年)通貨 ケルンターラー 現在 ドイツ
ケルン選帝侯領(ケルンせんていこうりょう、ドイツ語: Kurfürst von Köln)、ケルン大司教領(ケルンだいしきょうりょう、ドイツ語: Erzbistum von Köln)は、953年から1803年まで神聖ローマ帝国の選帝侯(ドイツ語:Kurfürst),司教領主(ドイツ語: Fürstbischof)であった。
ケルン大司教選帝侯はドイツにおいてカトリック教会のヒエラルキーではマインツ選帝侯(大司教)の次に位の高い聖職者であった。ケルン大司教選帝侯は周辺諸侯の寄進などにより広大な領土を保有していた。そして15世紀までは選出された国王に戴冠するのはケルン大司教選帝侯の職務であった。
1801年ナポレオンに全領土を割譲し,選挙権を喪失,選帝侯領は消滅、大司教領としてのみ存続したがそれも1803年帝国代表者会議主要決議により大司教領は世俗化され領土の大部分をプロイセン王国に残りをヘッセン=ダルムシュタット、ナッサウ公国などに分割され消滅した。
歴史
[編集]古代
[編集]ケルンは「コロニア・アグリッピネンシス」と呼ばれたローマ帝国の属州の都市で後に「アグリッピネンシス」が省かれ「コロニア」と呼ばれるようになりそれが訛ってケルンと呼ばれるようになった。
中世
[編集]ローマから最も早くキリスト教が伝来したケルンは、313年皇帝コンスタンティヌス1世が発布したミラノ勅令により司教座が設置された。8世紀末には司教座が昇格し大司教座になり同時に領地は大司教領に昇格した。6世紀末〜13世紀末にかけてケルン司教(大司教)はフランク王国・東フランク王国・神聖ローマ帝国の宮廷と密接な関係を持った。
大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教を領主とする聖職領邦となり、大司教座附属学校 (Domschule) の置かれたケルンはライン川流域の政治・文化の中心となった。またドミニコ会が設立したケルン大司教区付属神学校 (studium generale et solemne) ではアルベルトゥス・マグヌスやマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義を行ない、スコラ学最大の神学者となるトマス・アクィナスなどが学んだ。そしてマイスター・エックハルトによってケルン大司教区付属神学校と大司教座附属学校はドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなり、両校を母体に1388年ケルン大学が創立された。
選帝侯領になる
[編集]1198年、ローマ教皇インノケンティウス3世はヴェルフ家とホーエンシュタウフェン朝のローマ王位争いについて、
と宣言したため、ケルン大司教は事実上の選帝侯に昇格し大司教領も事実上の選帝侯領に昇格した。
1356年皇帝カール4世が金印勅書を発布し大司教は正式に選帝侯に昇格した。
1457年ケルン市は帝国自由都市となっり、大司教選帝侯の新たな首都ボンとなった。
15世紀にマインツ選帝侯が行うようになるまでは選出された国王に帝冠を戴冠するのはケルン大司教選帝侯の職務であった、またケルン大司教選帝侯は帝国の構成国の一つイタリア王国の大書記官長だったが時代が進むに連れその官位は形式上のものになった。
金印勅書により選帝侯に昇格した諸領邦
[編集]- マインツ大司教→マインツ選帝侯
- トリーア大司教→トリーア選帝侯
- ボヘミア王→ボヘミア選帝侯
- ブランデンブルク辺境伯→ブランデンブルク選帝侯
- マイセン辺境伯兼テューリンゲン辺境伯→ザクセン選帝侯
- ライン宮中伯→プファルツ選帝侯
帝国クライス
[編集]1500年ケルン大司教選帝侯領は帝国クライスの一つクールライン・クライスを構成する一つとなった、しかしクールライン・クライスは構成する10領邦4領邦(ケルン大司教選帝侯領含め)が選帝侯領だったので他6領邦に発言権はなかった。そのためクールライン・クライスは帝国唯一の“選帝侯・クライス”となった。
クールラインクライスの領邦
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近世
[編集]カトリックの牙城であった大司教選帝侯領であるが、宗教改革の影響を受け、当時の大司教選帝侯ゲープハルトは プロテスタントに改宗した。その後1583年ケルン司教区戦争が勃発しゲープハルトは大司教選帝侯領から追放された。
三十年戦争(1618年~1648年)では、カトリック側で参戦した。そしてプロテスタント側で参戦していたフランス王国に領土を侵略されその地位を脅やかされた。三十年戦争後、北ドイツの諸侯たちがプロテスタントに改宗していき大司教選帝侯としての影響力は徐々に薄れていった。
18世紀初頭には度々フランス王国の侵略や占領にあった。
1583年〜1761年まではバイエルン系ヴィッテルスバッハ家が大司教位及び選帝侯位を独占した。
1789年にフランス革命が起き、それが原因となって引き起こされたフランス革命戦争及びナポレオン戦争では幾度ともなく領土を占領された。
そして1801年リュウネヴィルの和約でオーストリア(神聖ローマ皇帝)はフランス(ナポレオン)のライン左岸(ラインラント)割譲に伴い、大司教選帝侯領は選帝権を失い選帝侯領は消滅し、他の領邦と何ら変わりのない、いち大司教領へと降格した。
消滅
[編集]その後、一聖職諸侯・聖職領邦として、かろうじて存続していたケルン大司教領も1803年2月25日、帝国代表者会議主要決議により以下のことが決定し消滅した。
1803年2月25日帝国代表者会議主要決議で決議さた内容
[編集]- 陪臣化
300以上ある領邦から全帝国騎士領、アウグスブルク・フランクフルト・リューベック・ブレーメン・ハンブルク以外の全帝国自由都市、その他中小領邦の帝国等族身分を剥奪し周辺主要邦の臣下とする。
- 世俗化
消滅後、領土はプロイセン王国、ヘッセン=ダルムシュタット、ナッサウ公国などに分割され帝国自由都市ケルン及び首都ボンはプロイセン王国に併合された。ナッサウ公国に併合された領土は1866年公国が普墺戦争にオーストリア帝国側で参戦したが敗戦し全領土をプロイセン王国に併合された。
首都
[編集]「ケルン大司教選帝侯領」という国名からほとんどの人は首都はケルン市と思われているが実際はケルン市が首都だったのは953年〜1457年までである。
ケルン大司教の活動拠点(首都)は、司教座設置以降ずっとケルン市だったが両者の関係は常に良好であったわけではなく、1089年市と大司教の間に衝突が起きた、この衝突により一時大司教が市から逃亡するという事件が起き、その後市は自立性確立を目指し都市印章を制定した。その後も市民は大司教選帝侯が領民(ケルン市民も含む)に重税をかけたり、苦役を強いたりした為、何度か争いが起きそのたびに市民は自治権強化に動いた。
そして1288年ヴォリンゲンの戦闘で大司教が敗北すると、最終的にケルン市は大司教の「優位」を排除し、市から追放した。大司教は拠点都市をボンとブリュールに移したが、1457年にケルン市が帝国自由都市となるまでは形式上首都はケルンであった。
1475年ケルン市が帝国自由都市になると大司教は首都(拠点都市)をボンに移した。