コパ・アルダオ
コパ・リカルド・アルダオ | |
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開始年 | 1913年 |
終了年 | 1957年 |
主催 |
アルゼンチンサッカー協会(AFA) ウルグアイサッカー協会(AUF) |
参加チーム数 | 2 |
最多優勝 |
リーベル・プレート (5回) |
コパ・リカルド・アルダオ(西: Copa Ricardo Aldao)は、1913年から1957年まで行われていたサッカーの国際カップ戦。一般的にはカンペオナート・リオプラテンセ(西: Campeonato Rioplatense、ラプラタ川流域選手権の意味)やコパ・リオ・デ・ラ・プラタ(西: Copa Río de La Plata、ラプラタ川カップの意味)と呼ばれた。
概要
[編集]20世紀前半の南米で数多く開催されていた国際カップ戦の1つであり、アルゼンチン(プリメーラ・ディビシオン・アルヘンティーナ)とウルグアイ(プリメーラ・ディビシオン・ウルグアージャ)のリーグ優勝クラブが対戦していた。1913年に第1回大会が開催され(結局中止となった)、1957年大会が最後となった[1]。この大会はコパ・リベルタドーレスの礎となった。
歴史
[編集]アルゼンチンとウルグアイは地理的に近く、1900年代初頭の両国ではクラブ間の国際親善試合がよく行われていた。必然的に、国際的な優勝クラブを決める試合が計画され、1912年から1914年までと、1918年と1919年はアルゼンチンサッカー協会 (AFA) のリカルド・アルダオ会長がトロフィーを授与した。このため、アルダオ会長の名前が大会名に使用された。
第1回大会は1913年に組織され、アルゼンチンリーグ4位のキンベルレイとウルグアイリーグ4位のセントラル・エスパニョール(ウルグアイ)が対戦したが、決勝は豪雨によって中止となり[2]、最初の戴冠クラブは1916年大会優勝のナシオナル(ウルグアイ)となった。サッカー史家のミゲル・ビオンダは、アルゼンチンリーグ優勝のエストゥディアンテスとウルグアイリーグ優勝のリーベル・プレートの間で1914年大会が行われたと断言しており、彼によるとエストゥディアンテスが優勝したとされる。これは2005年にアルゼンチンで出版された「エストゥディアンテス・デル・ムンド:栄光の100年」という雑誌や1997年にディアリオ・オイによって出版された「エストゥディアンテスの歴史」による。しかし、CIHFというテレビ局の番組によれば、この試合は大雨のために中止になったとされている。1913年大会から1940年大会までは、1年ごとにブエノスアイレス(アルゼンチン)とモンテビデオ(ウルグアイ)で交互に試合を行う1レグ制が採用されていた[2]。1940年大会は、2-2の同点だった試合途中にボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)がピッチを離れたため、ナシオナルがトロフィーを受け取ることになったが、両協会はこの年の優勝クラブを明確にしていない[2]。1941年1月22日、ウルグアイサッカー協会 (AUF) とアルゼンチンサッカー協会 (AFA) は状況の調査を行い、1941年大会から両国で1試合ずつを行う2レグ制を採用することを発表した[2]。1941年大会から1947年大会までは、ファーストレグの勝者であるナシオナルにトロフィーが与えられた1942年大会を除いて2レグ制で行われた。1947年までに大陸選手権の開催に興味が持たれ、1948年にはスポーツ史上初の大陸選手権であるカンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネスが行われた。南米大陸王者を決定するこの大会には南米各国のリーグ優勝クラブが参加した。
カンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネスのおかげで、2国間で優勝を争うコパ・アルダオは時代遅れの大会とされ、1948年から1954年までは開催されなかった。大会復権のための最後の試みのひとつが1957年大会であり、ナシオナル(ウルグアイ)とリーベル・プレート(アルゼンチン)が対戦したが、この大会は最初の計画から4年間も行われず、またナシオナルがブエノスアイレスでの試合を拒否したため、セカンドレグはついに行われることがなかった。このため、1957年大会は公式な大会とは宣言されていない[2]。国内リーグの発展にともなって各クラブのスケジュールが過密となり、またコパ・カンペオーネス・デ・アメリカという国際クラブ大会が新設されたこともあって、コパ・アルダオは不必要になり、1956年以降は試合が行われていない。
1997年にはペニャロール(ウルグアイ)とボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)の試合が行なわれたが、公式な試合とはみなされていない。1998年にはナシオナル(ウルグアイ)とベレス(アルゼンチン)の間でコパ・アルダオが開催されたが、プレシーズンの親善試合として扱われた。2013年にはベレス(アルゼンチン)とペニャロール(ウルグアイ)の試合が行なわれたが、やはり公式な試合とはみなされていない。
結果
[編集]統計
[編集]※1997年大会以降は含めていない。
クラブ別成績
[編集]クラブ名 | 優 | 準 | 優勝年度 | 準優勝年度 |
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リーベル・プレート | 5 | 0 | 1936,1937,1941,1945,1947 | |
ナシオナル | 3 | 4 | 1916,1919,1920 | 1917,1939,1941,1947 |
ラシン・クラブ | 2 | 1 | 1917,1918 | 1916 |
インデペンディエンテ | 2 | 0 | 1938,1939 | |
ペニャロール | 1 | 5 | 1928 | 1918,1936,1937,1938,1945 |
サン・ロレンソ | 1 | 0 | 1927 | |
ボカ・ジュニアーズ | 0 | 2 | 1919,1929 | |
ランプラ・ジュニオルス | 0 | 1 | 1927 | |
ウラカン | 0 | 1 | 1928 |
クラブ所在国別成績
[編集]国・地域名 | 優 | 準 |
---|---|---|
アルゼンチン | 10 | 4 |
ウルグアイ | 4 | 10 |
脚注
[編集]- ^ “1959 – COPA ALDAO (1957)”. FutbolHistorica. 2020年8月5日閲覧。
- ^ a b c d e Campeonato Rioplatense - Copa Dr. Ricardo C. Aldao RSSSF
- ^ Copa AldaoRSSSF
- ^ 「コパ・カンペオナート・デル・リオ・デ・ラ・プラタ」(西: Copa Campeonato del Río de la Plata)と銘打たれた代替試合がサン・ロレンソとワンダラーズ間で開催され、1-0でサン・ロレンソが勝利したものの、両クラブはこの試合を「コパ・アルダオ」とは見なしていない。
- ^ ボカ・ジュニアーズがピッチを離れたため、トロフィーはナシオナルに授与されたが、勝利チームは認定されていない。- 出典: Copa Aldao RSSSF
- ^ 第1戦でナシオナルが4-0で勝利したものの、第2戦が開催されていないため勝利チームが公式に認定されていない。
- ^ 代替となる親善試合がナシオナルとサン・ロレンソとの間で2試合開催された。
- ^ 第1戦でリーベル・プレートが2-1で勝利したものの、第2戦が開催されていないため勝利チームが公式に認定されていない。