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コンスタンチン・ミハイロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンチン・ミハイロヴィチ
Константин Михаилович
トヴェリ大公
コンスタンチン・ミハイロヴィチの死
在位 1328年 - 1337年1339年 - 1346年

出生 1306年
死去 1346年
配偶者 ソフィア・ユーリエヴナ
子女 セミョン
エレメイ
家名 リューリク家
父親 ウラジーミル大公ミハイル・ヤロスラヴィチ
母親 アンナ・ドミトリエヴナ
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コンスタンチン・ミハイロヴィチКонстантин Михаилович, 1306年頃 - 1346年頃)は、当初トヴェリ大公国内のドロゴブシ分領公、兄のアレクサンドルの死後、トヴェリ大公(在位:1328年 - 1337年1339年 - 1346年)、父はウラジーミル大公にしてトヴェリ大公のミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。息子にセミョンとエレメイ(両者はドロゴブシ分領公)がいる。

事跡

[編集]

初めて年代記に登場するのは1318年。父の人質としてハン国にいた。

  • 1320年にモスクワのユーリー3世の娘ソフィアと結婚する。
  • 1327年トヴェリ蜂起に際し、ハンの懲罰を恐れ、トヴェリの諸公はノヴゴロドプスコフに逃亡する。コンスタンチンもラドガに逃亡するが、すぐにトヴェリに帰国。
  • 1328年にハンから、トヴェリ大公位のヤルルィクを得る。
  • 1337年に兄アレクサンドルにトヴェリ公位を一時渡す。
  • 1346年頃、兄アレクサンドルの息子フセヴォロドと争い、両者ともに紛争解決のためにハン国に行く。その解決を見ぬ前にコンスタンチンはそこで死去した。
先代
アレクサンドル・ミハイロヴィチ
トヴェリ大公
1328年 - 1337年
次代
アレクサンドル・ミハイロヴィチ
先代
アレクサンドル・ミハイロヴィチ
トヴェリ大公
1339年 - 1346年
次代
ヴァシーリー・ミハイロヴィチ