コンスタンチン・ミハイロヴィチ
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コンスタンチン・ミハイロヴィチ Константин Михаилович | |
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トヴェリ大公 | |
コンスタンチン・ミハイロヴィチの死 | |
在位 | 1328年 - 1337年、1339年 - 1346年 |
出生 |
1306年頃 |
死去 |
1346年頃 |
配偶者 | ソフィア・ユーリエヴナ |
子女 |
セミョン エレメイ |
家名 | リューリク家 |
父親 | ウラジーミル大公ミハイル・ヤロスラヴィチ |
母親 | アンナ・ドミトリエヴナ |
コンスタンチン・ミハイロヴィチ(Константин Михаилович, 1306年頃 - 1346年頃)は、当初トヴェリ大公国内のドロゴブシ分領公、兄のアレクサンドルの死後、トヴェリ大公(在位:1328年 - 1337年、1339年 - 1346年)、父はウラジーミル大公にしてトヴェリ大公のミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。息子にセミョンとエレメイ(両者はドロゴブシ分領公)がいる。
事跡
[編集]初めて年代記に登場するのは1318年。父の人質としてハン国にいた。
- 1320年にモスクワのユーリー3世の娘ソフィアと結婚する。
- 1327年のトヴェリ蜂起に際し、ハンの懲罰を恐れ、トヴェリの諸公はノヴゴロドやプスコフに逃亡する。コンスタンチンもラドガに逃亡するが、すぐにトヴェリに帰国。
- 1328年にハンから、トヴェリ大公位のヤルルィクを得る。
- 1337年に兄アレクサンドルにトヴェリ公位を一時渡す。
- 1346年頃、兄アレクサンドルの息子フセヴォロドと争い、両者ともに紛争解決のためにハン国に行く。その解決を見ぬ前にコンスタンチンはそこで死去した。
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