コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

コント・レオナルド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コント・レオナルドは、レオナルド熊が率いた日本コントコンビ。1979年に結成され、1985年に解散。

来歴・概要

[編集]

1979年に当時「熊田にげろう」名義で活動していた熊は、元弟子であるゆーとぴあ・ホープの紹介で石倉三郎と「ラッキーパンチ」を結成し[1]、初めて世に出た。しかし熊は持病の結核のために体調が思わしくなく、休養することが多かった上に仕事が減ってしまい、収入が安定しない日々が続いたため1年弱でコンビを解散する形となる。

石倉は芸能界をいったん引退し、その後はマザー牧場で働いていた。

一方の熊は、解散直後に弟子である武者博和と「熊田うつぞう・にげろう」[2]を組んだ。間もなく「コント・レオナルド[3]に改称したが、命名者であるポール牧に許可もなく無断で改名した為に破門されてしまった。

初代コント・レオナルドのコンビ仲は良くなく、熊の執拗ないじめを受けた武者がノイローゼ神経症)に掛かる深刻な症状となった。さらに武者が「花王名人劇場」出演直前にコント中の舞台で転倒し、足を骨折し休演せざるを得なくなった。そこでホープと澤田隆治が取り成して、芸能界を引退していた石倉を呼び戻し1981年、二代目「コント・レオナルド」(レオナルド熊・石倉三郎)として再結成した。

鋭い社会風刺で、お笑いブームの一角を占めて安定した人気を得ていたが、コンビ仲は「ラッキーパンチ」の頃と同様に良くなかった。熊にとって『コント・レオナルド』は、自ら脚色・演出をしており「自分の名を冠した自身の持ち物」という意識と拘りを常に持ち続けており、自分で『コント・レオナルド』の知名度を上げたんだ、という強いプライドがあった[4]。しかしその姿勢に対して石倉が愛想を尽かし、熊も石倉の酒癖の悪さを批判するなどしていた。1985年10月、人気絶頂期であったが喧嘩別れする形で再び解散した。

二代目のコント・レオナルドとしての活動期間は4年間であった。

コント・レオナルドを解散後、熊は劇団で俳優・主宰[5]として活躍する一方、妻と共に副業も行っていた。石倉は俳優として現在も活躍している。

石倉と熊はその後絶縁し、1994年12月に熊が死去するまで一切顔を合わせなかったが、石倉は熊の葬儀に参列している。

メンバー

[編集]
北海道出身、台本とボケ担当。
初代に参加
長野県出身。後に「ブッチー武者」へ改名。水島びんと「アッパー8」を組み、『オレたちひょうきん族』でお馴染みになる。
ラッキーパンチ時代、二代目に参加
香川県出身、ツッコミ担当。白木みのるの弟子で、殺陣師を経て俳優として活躍。

芸風

[編集]

不条理コントを基本に、社会・時事問題の深層を抉る切れ味があった。締めは、(熊)「いつもニコニコ現金払い」(石倉)「違う!」。

脚注

[編集]
  1. ^ 形式上はポール牧門下であった。メンバー名はラッキー熊・パンチ三郎)
  2. ^ 熊は「熊田うつぞう」で、相方の武者は「熊田にげろう」であった。
  3. ^ 初代。レオナルド熊・ダヴィンチ白熊。
  4. ^ 熊が石倉に無断で割りを多く取ったり、後のすず風にゃん子などの別の弟子と「コント・レオナルド」名義で勝手に内職営業をしていた。
  5. ^ 後に石井光三とお笑いの登竜門となる劇団七曜日を立ち上げ、主宰に就任した。