コンピエーニュ
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Compiègne | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オー=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | オワーズ県 |
郡 (arrondissement) | Arrondissement of Compiègne |
小郡 (canton) | 3 |
INSEEコード | 60159 |
郵便番号 | 60200 |
市長(任期) |
フィリップ・マリニ (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Agglomération de la région de Compiègne |
人口動態 | |
人口 |
39,517人 (2011年) |
人口密度 | 744人/km2 |
住民の呼称 | Compiégnois |
地理 | |
座標 | 北緯49度24分54秒 東経2度49分23秒 / 北緯49.4149度 東経2.823056度座標: 北緯49度24分54秒 東経2度49分23秒 / 北緯49.4149度 東経2.823056度 |
標高 |
平均:41 m 最低:31m 最高:134 m |
面積 | 市: 53.10km2 (5 310ha) |
コンピエーニュ (Compiègne)は、フランス・オワーズ県のコミューン。オワーズ川沿いに位置する。
行政
[編集]コンピエーニュは、3つのカントンの主要町である。
- コンピエーニュ=ノール - 5つのコミューン
- コンピエーニュ=スッド=エスト - 4つのコミューン
- コンピエーニュ=スッド=ウエスト - 5つのコミューン
歴史
[編集]- 665年 - 聖ウィルフリッドがヨーク司教を命じられた。
- 888年2月 - 西フランク王ウードが、コンピエーニュで戴冠。
- 1374年-コンピエーニュ城が建設される。
- 1430年5月23日 - 百年戦争中、ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュ包囲戦の最中にブルゴーニュ派に捕らえられた。ブルゴーニュ派は彼女をイングランド人へ売り渡した。
- 1630年 - マリー・ド・メディシスはリシュリュー枢機卿を追放しようと企み、逆に彼にコンピエーニュへ追放された。1631年にマリーはブリュッセルへ逃亡した。
- 1918年11月11日 - 第一次世界大戦の終わりに、コンピエーニュ近郊コンピエーニュの森のル・フランポールで対ドイツ停戦が締結された。
- 1940年6月22日 - 侵攻してきたドイツに負けたフランスは、1918年の停戦と同じ場所のル・フランポールでナチス・ドイツと停戦を結んだ。
- 1968年 - パリ〜ルーベ自転車レースのスタート地点が、それまでのパリからコンピエーニュに変更された。
人口の推移
[編集]- 1882: 13,393
- 1990: 41,663 (行政区画), 44,703 (合計)
- 1999: 41,076 (行政区画), 44,703 (合計), 69,903 (集塊), 都市圏 (108,234)
見所
[編集]コンピエーニュの森
[編集]→詳細は「コンピエーニュの森」を参照
コンピエーニュの森は、フランス王家の狩場とされてきた。ルイ16世とマリ・アントワネットが初めて面会したのもここであった。
また、2度の停戦協定が結ばれた場所としても有名である。1918年の停戦(ドイツの敗北に終わった)、1940年の停戦である。
この地には今も1918年停戦を記念する建物があり、博物館で鉄道車両の複製品が展示されている。本物は1940年停戦に使用された後、ドイツへ移され終戦直前に破壊された。
姉妹都市
[編集]- アローナ、イタリア
- ベリー・セント・エドマンズ、イギリス
- エルブロンク、ポーランド
- ギマランイス、ポルトガル
- ユイ、ベルギー
- ジェジン、レバノン
- ハイファ地区[要リンク修正]、イスラエル
- ランツフート、イタリア
- アライシュ、モロッコ
- ローリー、アメリカ
- 白河市、日本
- ヴィアンデン、ルクセンブルク
- ジガンショール、セネガル
出身者
[編集]- コンピエーニュのロスケリヌス - 哲学者、神学者
- クリストフ・カペル - 自転車競技選手
- ダニエル・ブーランジェ - 脚本家、俳優
- アルベール・ロビダ - イラストレーター
脚注
[編集]- ^ “Villes jumelées” (フランス語). コンピエーニュ. 2024年2月9日閲覧。