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コンホバル (タイグ・モアの子)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タイグ・モアの子コンホバル
アイルランド語: Conchobar mac Taidg Mór
コノート王(King of Connacht
在位 872年 - 882年

死去 882年
アイルランドの旗 アイルランド
配偶者 アルバ(Ailbe)
子女 エイ(Áed mac Conchobair
タイグ(Tadg mac Conchobair
カハル(Cathal mac Conchobair
Máel Cluiche
家名 オコーナー家英語版
父親 タイグ・モア
(Tadg Mór)
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タイグ・モアの子コンホバル(Conchobar mac Taidg Mór、882年没)はコノート王(King of Connacht)。

彼はコノート王族(Connachta)の分家ウィ・ブルーイン(Uí Briúin)の氏族Síol Muireadaigh出身であり、祖父はやはりコノート王だったMuirgius(Muirgius mac Tommaltaig、815年没)である。[1] 父タイグ・モア(Tadg Mór、810年没)は、祖父Muirgiusとコノートの少数部族たちとの戦いの中で戦死している[2]

コノート地方のオコンホバル英語版(Ó Conchobhair、オコーナー)氏族は彼の名によるものである。

生涯

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彼が王位にあった正確な年は定かでない。レンスターの書Book of Leinster)の王者の一覧によると彼の支配は27年間であり、おおよそ855年から882年までと推定される[3] 。 なお、共同統治者であるモール・コハドの子マグロン(Mugron mac Máele Cothaid)の死は872年とされている[4]

コノートはこの期間、アイルランド上王(High King of Ireland)の支配下となった。860年にコノートの男たちは、コールマン氏族(Clann Cholmáin)出身の上王モール・セックネール(Máel Sechnaill mac Máele Ruanaid、862年没)による北のウィ・ニール(Ui Neill)への遠征に参加した。彼らはアーマー近くのMag Dumaiでの野営中に襲撃を受けて停止して撃退し、遠征は引き分けに終わった[5]

863年、ウィ・ニールの分家ケネル・エオガン(Cenél nEógain)から出た新しい上王エイ・フィンズリアス(Áed Findliath、879年没)が、自らの権威を課すためコノートへの遠征を行った[6]

868年、コンホバルはCell Ua nDaigriの戦い(Battle of Cell Ua nDaigri)において、上王エイ・フィンズリアスの味方としてダブリン北部ブレガの王(King of Brega)ゴナイングの子フラン(Flann mac Conaing、868年没)およびそのヴァイキング同盟軍と戦い、数では圧倒されながらも勝利を収めた[7]。 一説では、コンホバルの配下の王である、ウィ・ブルーイン・ナ・シンナ(Ui Briuin Na Sinna)の領主マナハン(Mannachan)がフランを殺害したと言われている[8]

"マナハンによる偉大な勝利、すさまじい武勇の英雄、ゴナイングの子の首を手に持ち、Tadhgの息子の顔より前に晒し"

アイルランドの年代記断章Fragmentary Annals of Ireland)は、867年にノース人が本拠地のリムリックへ向かう途上にコノート地方を通過して襲撃してきたが待ち伏せしていたコノートの男たちに敗北したと記録している[9]

873年にコノート地方は、マンスター王(King of Munster)ダナハ(Dúnchad mac Duib-dá-Bairenn、888年没)とレンスター・マンスターの境界に位置するオスリゲの王(king of Osraige)ケルバル(Cerball mac Dúnlainge、888年没)の攻撃を受けた[10]

コノートの継承者、キナエダ(Cinaed)の子アバン(Abán)は、867年にウィ・マイン(Uí Maine)王ディアルマイトの子Sochlachán(Sochlachan mac Diarmata)の手によって焼死した。また、872年に相続人であり共同統治者であったマグロンが没した[11]。 コンホバル自身は、年代記によれば老年まで生き882年に亡くなった[12]

家族

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コンホバルは、上王モール・セックネールの娘アルバ(Ailbe)と結婚していた。コンホバルの息子たちのうち、エイ(Áed mac Conchobair、888年没)、タイグ(Tadg mac Conchobair、900年没)、カハル(Cathal mac Conchobair、925年没)はみなコノート王となっている。他の息子に、Máel Cluiche(913年没)がいる。

カハルの子孫は、コンホバルの子孫を示すウア・コンホバル(Ua Conchobair、現代のオコーナー/オコナー英語版(O'Connor))として知られた。

脚注

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  1. ^ Francis J. Byrne, Irish Kings and High-Kings, Table 20.
  2. ^ Annals of Ulster, AU 810.3.
  3. ^ Book of Leinster: Ríg Connacht
  4. ^ Annals of Ulster AU 872.9.
  5. ^ Annals of Ulster, AU 860.1.
  6. ^ Chronicum Scotorum, CS 863.
  7. ^ Annals of Ulster, AU 868.4; Chronicum Scotorum, CS 868.
  8. ^ Annals of the Four Masters, M866.9
  9. ^ Fragmentary Annals of Ireland, FA 866.
  10. ^ Chronicum Scotorum, CS 873.
  11. ^ Annals of Ulster AU 867.5.
  12. ^ Annals of Ulster AU 882.7.

外部リンク

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先代
モール・コハドの子マグロン
(Mugron mac Máel Cothaid)
コノート王
872年 - 882年
次代
コンホバルの子エイ
Áed mac Conchobair