コンホバル (タイグ・モアの子)
タイグ・モアの子コンホバル アイルランド語: Conchobar mac Taidg Mór | |
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コノート王(King of Connacht) | |
在位 | 872年 - 882年 |
死去 |
882年 アイルランド |
配偶者 | アルバ(Ailbe) |
子女 |
エイ(Áed mac Conchobair) タイグ(Tadg mac Conchobair) カハル(Cathal mac Conchobair) Máel Cluiche |
家名 | オコーナー家 |
父親 |
タイグ・モア (Tadg Mór) |
タイグ・モアの子コンホバル(Conchobar mac Taidg Mór、882年没)はコノート王(King of Connacht)。
彼はコノート王族(Connachta)の分家ウィ・ブルーイン(Uí Briúin)の氏族Síol Muireadaigh出身であり、祖父はやはりコノート王だったMuirgius(Muirgius mac Tommaltaig、815年没)である。[1] 父タイグ・モア(Tadg Mór、810年没)は、祖父Muirgiusとコノートの少数部族たちとの戦いの中で戦死している[2]。
コノート地方のオコンホバル(Ó Conchobhair、オコーナー)氏族は彼の名によるものである。
生涯
[編集]彼が王位にあった正確な年は定かでない。レンスターの書(Book of Leinster)の王者の一覧によると彼の支配は27年間であり、おおよそ855年から882年までと推定される[3] 。 なお、共同統治者であるモール・コハドの子マグロン(Mugron mac Máele Cothaid)の死は872年とされている[4]。
コノートはこの期間、アイルランド上王(High King of Ireland)の支配下となった。860年にコノートの男たちは、コールマン氏族(Clann Cholmáin)出身の上王モール・セックネール(Máel Sechnaill mac Máele Ruanaid、862年没)による北のウィ・ニール(Ui Neill)への遠征に参加した。彼らはアーマー近くのMag Dumaiでの野営中に襲撃を受けて停止して撃退し、遠征は引き分けに終わった[5]。
863年、ウィ・ニールの分家ケネル・エオガン(Cenél nEógain)から出た新しい上王エイ・フィンズリアス(Áed Findliath、879年没)が、自らの権威を課すためコノートへの遠征を行った[6]。
868年、コンホバルはCell Ua nDaigriの戦い(Battle of Cell Ua nDaigri)において、上王エイ・フィンズリアスの味方としてダブリン北部ブレガの王(King of Brega)ゴナイングの子フラン(Flann mac Conaing、868年没)およびそのヴァイキング同盟軍と戦い、数では圧倒されながらも勝利を収めた[7]。 一説では、コンホバルの配下の王である、ウィ・ブルーイン・ナ・シンナ(Ui Briuin Na Sinna)の領主マナハン(Mannachan)がフランを殺害したと言われている[8]。
"マナハンによる偉大な勝利、すさまじい武勇の英雄、ゴナイングの子の首を手に持ち、Tadhgの息子の顔より前に晒し"
アイルランドの年代記断章(Fragmentary Annals of Ireland)は、867年にノース人が本拠地のリムリックへ向かう途上にコノート地方を通過して襲撃してきたが待ち伏せしていたコノートの男たちに敗北したと記録している[9]。
873年にコノート地方は、マンスター王(King of Munster)ダナハ(Dúnchad mac Duib-dá-Bairenn、888年没)とレンスター・マンスターの境界に位置するオスリゲの王(king of Osraige)ケルバル(Cerball mac Dúnlainge、888年没)の攻撃を受けた[10]。
コノートの継承者、キナエダ(Cinaed)の子アバン(Abán)は、867年にウィ・マイン(Uí Maine)王ディアルマイトの子Sochlachán(Sochlachan mac Diarmata)の手によって焼死した。また、872年に相続人であり共同統治者であったマグロンが没した[11]。 コンホバル自身は、年代記によれば老年まで生き882年に亡くなった[12]。
家族
[編集]コンホバルは、上王モール・セックネールの娘アルバ(Ailbe)と結婚していた。コンホバルの息子たちのうち、エイ(Áed mac Conchobair、888年没)、タイグ(Tadg mac Conchobair、900年没)、カハル(Cathal mac Conchobair、925年没)はみなコノート王となっている。他の息子に、Máel Cluiche(913年没)がいる。
カハルの子孫は、コンホバルの子孫を示すウア・コンホバル(Ua Conchobair、現代のオコーナー/オコナー(O'Connor))として知られた。
脚注
[編集]- ^ Francis J. Byrne, Irish Kings and High-Kings, Table 20.
- ^ Annals of Ulster, AU 810.3.
- ^ Book of Leinster: Ríg Connacht
- ^ Annals of Ulster AU 872.9.
- ^ Annals of Ulster, AU 860.1.
- ^ Chronicum Scotorum, CS 863.
- ^ Annals of Ulster, AU 868.4; Chronicum Scotorum, CS 868.
- ^ Annals of the Four Masters, M866.9
- ^ Fragmentary Annals of Ireland, FA 866.
- ^ Chronicum Scotorum, CS 873.
- ^ Annals of Ulster AU 867.5.
- ^ Annals of Ulster AU 882.7.
- Annals of Ulster, ed. & tr. Seán Mac Airt and Gearóid Mac Niocaill (1983). The Annals of Ulster (to AD 1131). Dublin: DIAS (2008)
- Annals of the Four Masters, ed. & tr. John O'Donovan (1856). Annála Rioghachta Éireann. Annals of the Kingdom of Ireland by the Four Masters... with a Translation and Copious Notes. 7 vols (2nd ed.). Dublin: Royal Irish Academy CELT editions. Full scans at Internet Archive: Vol. 1; Vol. 2; Vol. 3; Vol. 4; Vol. 5; Vol. 6; Indices.
- Chronicon Scotorum, ed. & tr. Gearóid Mac Niocaill (2003). Chronicon Scotorum. Unpublished manuscript made available to UCC Edition and translation.
- en:Fragmentary Annals of Ireland, ed. and tr. Joan N. Radner (1978). Fragmentary Annals of Ireland. Dublin: DIAS (Available from CELT: Edition and translation)
- Byrne, F.J. (2001) [1973]. Irish Kings and High-Kings (2nd ed.). Dublin: Four Courts Press
外部リンク
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