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ゴッタン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴッタンは角形と丸形とある。写真は宮崎県伝統工芸士 黒木俊美の規格で作られた上牧正輝の作品
ゴッタン ごったん
別称:箱三線、板三線
各言語での名称
分類

ゴッタンは、主に鹿児島県及び宮崎県南西部の南九州地方に伝わる伝統工芸品の民族楽器。主にを材料とした板張りで3本の弦楽器である。別名「箱三線」、「板三線」とも呼ばれる。宮崎県では伝統的工芸品に指定されている。

ゴッタンの特徴はなどの金属を使わず組み立てられており一の弦にサワリがない、胴箱にの板を張り付けて音を出している。特に音が出るような穴をあけない。棹の長さも三味線より少し短い。三味線の棹の長さで作ったものは「ゴッタン」ではなく「箱三味線、板三味線」になる。音色はこもった音で小さく低く素朴。演奏にては通常は人差し指だけで弾く「爪弾き(つまびき)」で演奏する。3つの弦を同時に弾く濁音に魅力があり、唄声を殺さず弾けるため、語りものの時に唄をハッキリさせる、民謡唄やはやし唄伴奏楽器としてテレビラジオのない時代(仏教伝来1500年代頃)から長く娯楽として受け継がれてきた。「なにはなくともゴッタン」と言われ、庶民の楽器として薩摩地方を中心に姶良国分福山財部都城など南九州各地にひろまり、島津氏による一向宗の信仰弾圧があった際には、ゴッタンを用いて唄うように念仏を唱えていた。現在では作り手も歌い手も減りつつありる。

ゴッタンは三味線のような甲高い音は出ないため、唄を織り交ぜながら楽器のリズムと張り上げる唄声、歌詞の面白さの三つが揃ってその魅力を存分に引き出せる楽器と言える。

ゴッタンの奏者に荒武タミがいた。荒武タミの演奏は、時に五本指全てを使って3つの弦をはじいて演奏した、また別の奏者においては弾きながら箱の下部を叩いて太鼓のかわりにリズムをとるという奏法も存在した。弦をはじくと同時に箱を叩く。南九州薩摩は民謡も違うが弦も叩き弾きをする。 「薩摩の楽器 ゴッタン」と言われる由縁である。 現在では荒武タミの最後の弟子として橋口晃一が後継として演奏を引き継いでいた。

ゴッタンの歴史と背景

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ゴッタンが描かれた財部駅駅名標

ゴッタンは当時の薩摩中国との貿易をしていた沈没船の中から発見された。元は貴州省ミャオ族に伝わる三弦琵琶の楽器でその名を『古弾グータン』音読みで言うと「コタン」これが当時の人々に解釈されて「ゴッタン」と呼ばれる様になったと思われる。雲南省や貴州省などの照葉樹林帯の生活、習俗、儀礼など日本文化の共通性が多く指摘、報告があるが、その照葉樹林文化帯にのって日本にやってきたようだ。「ゴッタンが伝えられる際、水神信仰につながる呪具じゅぐ、雨乞いの道具としての性格も併せ持っていたため、いつの時代でも民衆が手放さなかったのではないか」との民俗学者、鳥集忠男は「花和尚訪中記」の中で指摘している。

中国から薩摩へ1580年〜1600年頃に坊津に伝来したと見られる。坊津町の輝津館には当時を思わせる真っ黒になった「ゴッタン」が今も飾られている。

島津藩の時代、ゴッタンが伝わり広がった背景には島津藩の財政事情が深く関わっていた。 そのきっかけになった一つに幕府のお手伝い普請「木曽三川治水工事」宝暦治水事件(1751-1764)がある。大阪の商人に多大な借金を背負い、島津藩は八公二民の重税を人々に課した。人々は生活の苦しみから仏に希望の光を求めた。しかし、薩摩藩にとっては浄土真宗へのお布施は税徴収を圧迫される為、藩内では厳しく念仏弾圧が行われていく。(慶長2年(1597年)浄土真宗禁止令を発布)約300年にも及ぶ過酷な念仏弾圧に人々は隠れ念仏洞と呼ばれる洞窟などに隠れて念仏を唱えていた。(宮崎県北諸県郡三股町には今も隠れ念仏洞が残されている。)やがて人々は「ゴッタン」の出現によって明るい場所で唄に織りまぜて念仏唄として弾くようになった。ゴッタンの伴奏に合わせて喜びや悲しみを込めて唄った「荷方節」が今でも伝承されている。

荷方節

西は西方の弥陀釈迦如来 拝もとすれば 雲掛かり 雲に邪心は 無けれども 我が身が 邪心で拝まれぬ

雲は薩摩藩のことを意味している。雲=お上

ゴッタンは念仏信仰の伴奏楽器として根付き、南九州の伝統楽器として現代へ伝わる。

鹿児島県での名前の由来は大工が新築のお宅の棟上げ前に余った材料で宴用に一晩で作った楽器として、ゴツくて不細工な「ゴッタマしい」語尾に鹿児島地方独特の言い回しで「~ドン」の派生語で「~タン」とつける言葉が重なってゴッタンと言うようになったとの伝説もある。

外部リンク

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