サアド・ザグルール
サアド・ザグルール(アラビア語: سعد زغلول、Saad Zaghlul、1859年 - 1927年8月23日)は、エジプトの政治家である。1924年1月26日から11月24日までの間、エジプト王国の首相を務めた。サアド・ザグルール・パシャ・イブン・イブラーヒームとも呼ばれる。
生涯・人物
[編集]エジプト革命
[編集]ナイル・デルタで生まれたサアド・ザグルールは、ワフド党を率いて、エジプトの独立闘争を支持した。エジプトを保護国化していたイギリスは、ザグルールを逮捕することでワフド党の勢力を弱めようとしたが、イギリスの意向に反して、エジプトでは、革命が勃発した。
1919年3月9日、革命がカイロで勃発すると、独立を求める動きは、エジプト中に広がった。ザグルールは他の指導者3人とともにマルタに流され、3週間の間で、800人以上のエジプト人が殺されたが、暴動は収まることはなく、イギリスは、4月7日にザグルールを解放した。4月11日には、ワフド党の代表団は、パリ講和会議に出席したが、アメリカ合衆国がイギリスの政策を支持したことで、失望することとなった。
イギリスのザグルールに対する監視は継続され、1921年には、再び逮捕され、セイシェルに流された。しかし、この時には、エジプトにおける独立運動の流れはとめることができず、1922年には、エジプトは独立を獲得することに成功した。その過程の中で、ワフド党は、地主層や当時の民族資本家層の支持を獲得していった。
首相時代
[編集]ザグルールは、エジプト独立の英雄の立場を獲得していったが、党内政治はほぼ独裁状態であり、党内での議論がほとんど行われなかったようである。そのため、ザグルールと意見を異にする政治エリートが立憲自由党の結成に動いた。首相経験者のアブドゥルハーリク・サルワト、アドリー・ヤカン、気鋭の法律家アブドゥルアジーズ・ファフミー、イスマーイール・シドキー、ムハンマド・フサイン・ヘイカルなどである[1]。
さらに、ワフド党は1923年憲法の擁護に動いていたが、ザグルール自身は憲法制定に反対していた。また、憲法制定によって、権力分散と自らの権限が縮小されることをフアード1世も嫌っていた。したがって、フアード1世とザグルールは蜜月状態となったが、この蜜月状態は、1924年に破綻する[1]。
1924年1月12日、エジプトでは総選挙が実施され、ワフド党は、圧倒的勝利を収めた。2週間後、ザグルールによる最初のワフド党政権が成立した。ザグルールは、イギリスに対しエジプトの即時完全独立を主張すると同時に、顧問制の廃止やイギリス軍の完全撤退を要求した[1]。
しかし、1924年11月19日に、エジプト軍総司令官兼スーダン総督であるリー・スタックが暗殺された[1]。イギリスは、ザグルールがそのまま内閣を運営していくことに難色を示した。その結果、ザグルールは11月24日に、首相を辞職し、全ての公職も辞職した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 松本弘 著「民主主義の受容と混乱」、私市正年・栗田禎子 編『イスラーム地域の民衆運動と民主化』東京大学出版会、2004年、79-99頁。ISBN 4-13-034183-9。
- Vatikiotis, P.J. (1991). The History of Modern Egypt. Johns Hopkins University Press. ISBN 0-8018-4215-8
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Al-Ahram Weekly > Chronicles > The bitter harvest - ウェイバックマシン(2014年10月23日アーカイブ分) - An account of the 1924 assassination in Cairo of Sir Oliver (Lee) Stack and its consequences for Egypt and Zaghloul
- Time: "High Tea, Low Lunch" - A 1926 story about Zaghloul's attempt to return to power
- 『サード・ザグルール』 - コトバンク
- 『サード・ザグルール』 - コトバンク
- 『ザグルール・パシャ』 - コトバンク